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ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

ひとりが好きじゃダメなのか

ひょんなことから、3月のうちに新書を10冊読むことになった。それくらいの分量を読む月はあっても、いざ基準があると一気に身構えてしまうのはこれまで目標を定めて行動することがあまりなかったからかもしれない。もしくは、学生の身分で過ごす最後の月であるからかもしれない。

ただ読むだけでは普段と何も変わらないので、感想を書くことにした。というのも、しょうもない文章を長々と書けるのもしばらく出来なさそうだから。卒業旅行のようなものかもしれない。

本のチョイスも気にしなければならなそうな事情があるので、テーマに沿って読むことにした。"学生のうちに抱いた疑問や不鮮明な興味を学生のうちに解決する"ことが出来るような本を選んだ、つもり。

 

一冊目はこれにした。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

 

 森博嗣の本はなんか人気なのでひとつ読んでみたかった、という動機もある。

 

この本は、繋がり依存的な社会が人間的に浅薄だということを、浅薄な人間を怒らせないように気を遣いながら丁寧に言っている本のように思う。

述べられている"孤独"とは、すなわち承認から切り離されていることである。ただし、孤独は状況を示す言葉ではない。個人の主観における状況認識として孤独が成り立つ。

著者は「良い子」になろうとする心理を、孤独からの逃避としている。孤独恐怖症といっても良いし、承認依存といっても良いだろう。子供は成長の過程において、コミュニティのなかで、ある他者から「良い子」と評価されようとする。家庭内において親から見た「良い子」、学校の先生から見た「良い子」、さらには友達関係から見た「良い子」はそれぞれ異なるが、子供はそれぞれに適応して、全ての場面で「良い子」であろうとする。著者はさらに、いじめっ子も「良い子」の一種であるとしている。それが道徳的に悪くあっても、いじめっ子コミュニティの中では、一定の規範に則り行動を実行する「良い子」、その中でもとりわけ「役に立つ子」にほかならないわけである。

では、なぜ「良い子」であろうとするのか?という問が主題である。

現実の楽しさと虚構の楽しさというのがあり、虚構の楽しさの代表例として飲み会を示している。言われてみれば確かにそうだ。酒が好きなら一人で酒を飲めばいい。保存状態やポンプにこだわるビールのような酒が好きならともかく、日本酒や焼酎など、店に行っても同じ瓶が出てくるだけである。それでも大衆的な居酒屋へ行き、"会"をひらくのは、他者依存にほかならない。他者がいなくなれば途端に意味を成さなくなり、一種の絶望感に襲われる。

これは典型的な依存のサイクルである。飲み会が好きな人間の多くは、もはやその会での主目的は、一緒に酒が飲めるくらいの"仲間"であるという関係性の確認だけにある。酒を飲み語り合い笑い合うというような楽しみとは異なるものであり、本来の仲間的関係は成り立っていない。さらに言えば、関係性の確認は不可能である。結局のところ、相手が自分をどう思っているかはわからないし、他者に認められているという自己判断でしかないのだ。しかし、それが唯一的な楽しい状態であると誤解をしているからこそ、このサイクルから切り離されることは恐怖なのである。

 

著者は工学博士の人なのだが、本の半ばで面白いことを言っている。孤独はサインカーブのようなものである、という話である。ただし実際はそんなに単純なものではなく、大小かつ周波数の異なるカーブが複雑に足し合わさっている、ということも言っている。つまりフーリエ級数展開可能であると言っているわけだ。さらに、孤独(ポテンシャル)の1回微分によって得られるものは、感情変化の速度であると述べている。さらに微分をすると、加速度が得られる。力、すなわちここでは努力に比例するものである。微分をするとπ/2ずつズレていくわけだが、つまり、寂しさを最も感じるのは、孤独への移行途中のまだ"孤独"でない状態のときであり、最も孤独なときに、もっとも努力が行われるということである。そして同時に、最も孤独であるときには、すでに孤独感は上向きになり、すなわち最大の勢いを持って前向きに思考しているということである。

これは、物事を行う際に共通のことのように思える。孤独を物事、孤独感の解消を目的一般というふうに置き換えてみれば、物事の目標達成から最も遠い状態であるときこそ、最も努力を行うし、努力を行っている(行えている)状態というのは、物事への不安感はようやく解消され、期待へ移行するということだ。繰り返すが、その時点では目標達成から最も遠い状態に居るにかかわらず、である。

僕は、期待は動機としてたりうる、と考えている。でなければ、最低な状態のときに努力を行うことなど到底出来ないからである。保証もなく、現状もろくでもないのに、どうして努力が行えようか。それは純粋な期待にほかならない。個人的な話をすれば、だから僕はお金稼ぎが好きだ。お金稼ぎをしている時間はもっとも娯楽から遠い時間であるが、お金はよりよい娯楽を得るための必要条件であるから、労働を行うためのモチベーションにつながる(もちろん、他の心理的ストレスで滅入ることもある)。ここでは、目的が娯楽で、努力が労働である。だから僕はキャッシュバック目当てで携帯を契約するその瞬間が好きだし、期待値の高い台を見つけたその瞬間が好きだ。

 

話を戻そう。著者は、虚構でない現実の楽しさを得るための手段として孤独を勧めている。ここで思ったのが、孤独というのは、哲学を実験するにあたり優秀な手法である、ということである。純粋な認識や純粋な思考を抽出する取り組みは、哲学の根本的な問題として取り扱われてきたが、孤独というのは、ある種"禅"のように、純粋理性を抽出する装置として機能しうるように思える。孤独から生まれる現実の楽しさというのは、すなわち自己認識で完結する世界であるからだ。

理性を育てれば、社会の流れとはときに相反することがあるかもしれない。著者はそういった例として、結婚を挙げている。結婚をしないことを積極的に行う人たちの出現は、結婚し子供を産み育て家庭を持つことが幸せであるというプロパガンダとマーケティングの融合した価値観を、孤独の立場から再検討した結果だということである。こうした世間的な常識に従うことは、「良い子」であろうとする承認を獲得するための手段として無意識に利用されていて、また、それだけ繋がりを重視するように教育されてきた結果だといえるだろう。

 

さて、この本で一番面白いな、と思ったのが、読者に釘を刺すところ。天才はこうだけど、お前らは絶対天才じゃないから安心していい。もちろん俺も同じだ。みたいなところ。技術者教育を受けたことのある人というのは、結構こういう凡人自認がある。自分を矮小な存在だと認識しているもったいない人というのは、工学の世界には結構いる。それは学問を教授する上で便利な価値観だったから与えられただけかもしれないし、あるいは価値尺度の根本的な違いかもしれない。いずれにせよ、存在の大きさというのは得られる価値に影響をあたえるので、孤独であることで真の楽しみを見つけつつも、他人からの承認というのは意識していくべきではあると思った。自己実現欲求とは別に、安全欲求として。