ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

思考のショートカット

新生活が1ヶ月経過しました。

毎日の通う場所が変わったりするみたいな微々たる変化は今まで何度かありましたが、大きな時間的制約の伴う環境への変化というのは初めてで、その所属における社会的責任そのものよりも、よほど環境ばかりに意識を向けてしまうような状況です。

とにかく何をするにせよ、時間がなくなったということを非常に実感するばかりです。

そんな状況で思ったのが、思考の切り替えってすごい大事なんだな、ということ。気分的・感情的な要素を排除して目標を達成するための思考に徹するというような成果主義的な意味ではないです。単純に、考える時間ってもうないんだなということを実感しましたという話です。

以前の僕にとって、同じテーマで数日間悩むということは当たり前の話でした。というか、自分自身をある以上の水準で客観視することが可能になったと自負してからの数年間は、結局のところほぼほぼ同じ問題について考えていたように思います。そういった一連の過程の中で、悲観的思想そのものは排除できるどころか却って確立してしまったものの、最終的には、同時に楽観を成立させていたように思います。ただ、これに至るまでにはあまりにも時間を掛けすぎていたと思います。それだけ消化すべき事象が他人よりも大量に存在していたのか、それとも頭の回りが他人よりも劣っているのかは判断しかねるところですが、いずれにせよ、消化物の存在も、その消化に伴う消費も、僕の大きな相対的負債です。

ただ、ひとつだけ良かったことがあります。というのも、これまでのような問題を与えられても、それら全てを思い詰め続けるようなことはなくなったということです。もちろん、今の自分に対する負荷が過去のそれと同じかといえば違うし、それによって思考が変化することも身をもって知ったので、ひとえにストレス耐性が付いたという結論を述べることはできませんが、悲観的結論に辿り着かざるを得ないいくつかの問の源泉となるような事象については、

「もういつ死んでもいいや」

「人生どうせ勝てないし適当にやって無理だったら終わろw」

というような、一種の楽観を即座に応答することで、思考のプロセスを排除できることがわかりました。これは結果的には、思考の定着の訓練となっているのかもしれません。それはつまり、思考の末の結論を実践のフェーズへと遷移させているということに他ならないと思います。あらゆる意味で実践の場であることを実感するとともに、これまでに一連の思考を済ませておくことができたのは、数少ないながらも大きな幸運であるというふうに強く思いました。