ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

死んだ愛は、心の中で生き続ける

例の10冊読むアレであるが、網羅的なだけのつまらない本にいくつかあたってしまい、読んで考えたことではなくストックしている持論を展開するだけになってしまい感想文として成立しない状況になってしまった。まあ、読書に限らず、コンテンツの消費というのはそういうものだ。

 

前々から読みたいなと思いつつ読んでいなかった本がこれ。

 鶉まどかさんはTwitterのRTで流れてきたのを見たのが最初で、この人頭良いなあと思って、それからちょっとして本を出すらしいというのでウィッシュリストに入れたまま半年が過ぎていた。やっと買えた。

 

オタサーの構成員が代表するような"非モテ"の人間をサークルクラッシャーとして食い散らかしていた経歴のある人間というイメージがどうしても強いが、本書では、自身の生育した環境やいくつかの恋愛経験を踏まえ、クラッシャられの様子を分析している。

章のタイトルにもなっている「わたしたちは"お母さん"が欲しい」という言葉が、壊す側・壊される側の共通項であり、サークラという現象の本質であることを鶉まどか氏は指摘している。

つまりは、自分に対する承認が欲しいことがサークラの根本的原因なのである。家庭、友人、そして恋愛といった各種の関係の形における常識的な承認を得られぬまま齢だけを重ねることになってしまった人間の、単なる一つの結果の形に過ぎないように見える。一歩間違えば性的逸脱に走っていたかもしれないし、犯罪に走っていたかもしれない。それがたまたま、法的には健全な形で、人畜無害そうな見た目のひとたちの世界で完結しているから、今まで問題にならなかっただけなのではないだろうか。

僕自身は、サークラ的な誑かし行為自体を悪いこととは思わない。"姫"(サークラ∈姫 でも サークラ∋姫 でもないが、面倒くさいので姫と称す)が他人から好意を抱いてもらうために尽くすこと、非モテ男性が(珍しく)自分に好意を示してくれた人間に精神を捧げること、これ自体は、昨今ではよくある恋愛の形のひとつにすぎない。ここで問題なのは、ミスマッチである。多数にちやほやされ、恋愛関係よりも"モテ"を構築していく姫に対して、その構成員である非モテ男性が、一対一の恋愛関係を求めてしまうことにある。

著者は恋愛を題材としたコンテンツによる「自由恋愛」の押し売りを、"強制恋愛"だと揶揄している。サークラのような一方的に燃え上がり一方的に燃え尽きる関係性は幻想的な理想の恋愛像を抱くことによる悲劇であることをうまく表現していると思うが、この強制性はサークラに対する批判的な視線そのものにも当てはまる。オタクをたぶらかすビッチ、とか、あるいは勝手に勘違いを起こすバカなオタク、といった先入観を捨ててすこし冷静になって考えてほしいのだが、そもそも、姫と男性の間には、相互の承認しか存在しなかったはずなのだ。姫側としては理想的なポリアモリーの関係が成立しうるのである。お互い承認に飢えている人間なのだから、それ以上でもそれ未満でもない関係性を認めてしまえば楽になるのにと思う。姫と非モテの確執はこの本以後も深まるばかりであるが、その責任の所在も簡単に決定できるようになる。一対一の関係性を一方的に求めればそれは悪であるし、一対一の関係性を求めてくることを前提・期待として多数の関係を維持することもまた悪である。ただ、あまりに強固に恋愛像が形成されているために、こうした割り切りが難しいのも現実であるし、ポリアモリー的恋愛には抜け駆けを試みようとする"わかってない"人間がいるとすぐに破綻するが、サークラが起こるような場は往々にして、均衡を形成できるほどコミュニティの閉鎖性が担保できない。おそらく、この関係性を維持することは不可能なのだろう。そういう意味では、壊れることがわかりきっている関係であることを、少なくとも姫は知っているのだ。知っていてもなお、歪んだ形で承認を求め続けてしまうことの責任は果たして誰が負うべきなのだろうか。

 

サークラの関係性のもう一つの問題点は、一対多関係の多数側、すなわち非モテの側が姫側から切り離され、一方的な形で傷を負うことにある。世の非モテ男性が姫にひどく否定的であるのは、この関係性によるものであるのではないだろうか。「(〇〇が)好きだ」という言葉は、相手からの否定、もしくは新たに関係に入り込んだ第三者の介入によって簡単に打ち消される。ああ、あの時認められたのは偽りだったのか、と(とりわけ非モテ男性は特に強く、ときに被害者意識を持って)落胆する。一方で姫の側は大半の場合、相手から承認された状態のまま、関係が消滅するわけである。ひどく失礼な言い方をすれば、鶉まどか氏がこの本のような自信に満ちた文章を出版できるのも、こうして一方的に承認を得ることが出来ていたからである。もちろんそのためには相応の努力が必要であるし、本の中でもその努力は重要性をもって記されているが、それでも、こうした一方的あるいは相互的な承認獲得のサイクルへの最初の一歩の踏み場のない人たちを責めることが可能になるとはいえないだろう。

一般的な男女の、あるいは精神的にそれに等しいような恋愛に至るまでの関係性というのは、必ずしもオタサーに限らず対等ではない。先日、女装やMtF、ニューハーフの集うパーティーに参加したのだが、世の中には物好きも多いもので、何人かの男性から声をかけられ、つまりはナンパをされた。女性の精神の疑似体験をしたわけである。実際に体験してみてわかるのは、「求められることは悪くない」という自意識である。求められることには抗えないし、拒否をする積極的な理由もない。相手が気を遣ってくれているのは自分が何かの見返りを求めたわけでもなく、勝手にやっていることである。そんな感じの感覚を直感的に得ることが出来た。モテる男もまあこんな感じなんだろうが僕は非モテ人間なのでわからない。とにかく、このイベントは承認とお酒が無償で得られる大変良いものであったし、仮装をしているはずの自分が、本来的にこうあるべきだという錯覚すら覚えた。また失礼なことを言うと、サークラを行う姫も仮装と自己の区別が付かなくなっているのかもしれないと思った。女装野郎と一緒にするのはあらゆる点で本当に失礼なのだが、結局のところ、サークラの原動力というのは、承認を得られるような形で適切に自己を変容させたのだという誤った認識なのではないだろうか。

いずれにせよ、愛されることばかりに目を向けてしまい、自分が愛を与えるということを置き去りにしているという鶉まどか氏の指摘は的を射ていると思う。ただ、これは恋愛の根本的問題でもある。相手が自分を真に愛しているかどうかは、確認が不可能なのだ。それは同時に、自分が相手を愛していることは正確に伝わり得ないことも示している。相手に愛されるために極端な形で尽くす行為は確かに自分が相手を愛しているが故の行為ではないが、しかし、自意識でいくら愛し、愛に基づいて行動したところで、それは原理的に伝えることができない。真の愛が行動でわかるというなら、理解できる行動はいくらでも模倣できるので、よって、真の愛は行動ではわからない。結局のところ、愛されたい、受容されたいといった幻想と同様に、自分が相手を自分の思う形で愛するといった積極的な姿勢も、言葉としては美しいが、同様に幻想にしかなり得ないのだ。

 

……ここまで書いたところで、もしサークルクラッシャー時代の鶉まどか氏が目の前に現れて、僕に良い顔をしてくれたら、たぶん一瞬で落ちる。人は承認なしでは成長できない生き物であると感じるし、純粋な理屈だけでは本能には勝てない。しかし、だから本能に任せて良い、というのもまた違うと判断するくらいの理性もある。結局のところ、自分にとって都合の良い形を手探りで探すしかないのだし、サークルクラッシュというのは、その過程で起きる不幸な事故のひとつに過ぎないのだと思わされた。