ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

僕は物心ついたときから片親家庭で育ち、そして僕の母親はいわゆる毒親だった。

離婚の記憶がないのは良いことでもあるし、悪いことでもある。
良いのは離婚のゴタゴタに起因する精神的な影響を受けなくて済んだことで、悪いのはどんな人間がどのように離婚に至るのかを間近で見る貴重な機会を逃したことだ。

母親には年上の彼氏がいて、いわゆる愛人のような存在だった。
一緒に食事をしたり、僕の住む家で過ごしたりという時間はそこそこの量あり、生活を共にしていると十分言ってよい人間だったと思う。

そんな中で、僕の立ち位置もわからないものになっていく。母親からすれば僕はただ一人の子で、母の彼氏からすれば無下に出来ない愛人の子なのだが、眼の前にいる二人のいずれか一方しか選べないということが往々にしてある。
そして優先順位をつけるならば、母は生命線の彼氏を選ぶし、母の彼氏は当然に母を選ぶ。
この関係性は、僕にとってのみ明確に家族だった。

こういう世界が出来上がってしまうと、例えば虐げられたとしても怒りの行き場はどこにもなく、ただ自我を殺す以外にできることが一切なくなる。
これが学校や職場という構造の中になると怒りの昇華先があって、長期的な見方ではそれが打開策だったりするのだが、家庭の中にはそんな機能はない。

 

かつて実家で過ごしたときのような居場所のなさを、今は感じずに済んでいる。

その快適さだけが圧倒的に強烈なので、仕事が辛いなと感じていても、安易に辞めることが出来ない。
労働を辞めるということは、救いを自ら断ち切るということのように思えてしまうのだ。

もしも生まれた家庭が違えば、もっと有意義に時間を使えただろうとか、もっと充実した経験を出来ただろうとか、そういうことを考えることもある。

が、なにより不幸なのは、自分の居場所が認められた途端、強烈な安心感を覚えてしまうようになったことだと思っている。
僕を都合よく利用したい人間がいたとすればこれはとても都合の良い性質だし、そしてその時以外には全く効果のない性質で、呪いと言ってよいだろう。

この先の人生、この呪いで取り返しのつかない失敗をすることが続いていくのだろうなという強烈な予感があり、その予感はさらに強さを増すばかりだ。