ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

あの頃は毎日何かを考えながら生きていた、ような気がする

最近、ブログの記事を書かなくなりました。

ブログを書かなくなったのは決して飽きたからではありません。いや、実際にはこの感覚、あるいは状態こそが「飽き」なのかもしれないのですが、少なくとも僕は飽きていないという自意識があります。

 

言葉というものの存在は不思議だなあ、なんていう誰しも一度は考える漠然とした疑問を、僕も考えることが時々あります。

自分が幼い頃、「舌を火傷する」「足が攣る」という感覚と言葉が長いこと結びつかなかったということがあります。

辛いと言われているものを食べた時の感覚が「辛い」で、熱いものを食べた時の感覚は「熱い」なんだな、という学習はできたものの、熱いものを食べた後の現象が「火傷」であるということは、皮膚の火傷を何度も経験しても、一向にわかりませんでした。

一方、「足が攣る」を理解できなかったのは、単純に足が攣ったことがなかったというだけの話です。

 

こういった言葉の学習というのは、身体的なものに限らず、やはり現実と結びつくことで初めて理解し利用できるようになるのだと思います。貧困・病気・尊厳などを社会が十分に発見できないのは、すなわち言葉が指し示すものを理解できていないということでしょう。

 

…なんて言ってみたものの、果たしてそれが正確な解釈であるかどうかはわかりません。唯一言えるのは、このようにして、憶測の部分を多分に残したまま演繹的な導入を早速に始めてしまうのが現状の僕だということです。

 

よくよく考えてみれば昔の自分もそうだったのかもしれない、などと無根拠に考え、現在の状態を理解した上で未来の方角を向いて生きるしかないのだという結論も浮かぶものの、ビジネス的理由による意図的な情緒極振りでこの結論を導いたであろうファンキー加藤と同様だと考えてしまうと、なんだか違うような気もしてしまい、かといって考える気もあまり起きず保留しています。

 

おそらくは簡単であるからだと思いますが、理想と現実のギャップが世の中には存在するのだから現実に適応することが第一であるという考え方の人は世間にまあまあ多く、理想は現実と乖離しすぎているため現実への導入は放棄すべきである考える人も、そこそこに多いでしょう。

 

理想は意味あるものと僕は信じていますが、同時に、現実にのみ根ざした思考を始めてしまった自分を認識し、正直なところ不安を感じています。

今のそれはもはや思考ではなく脊髄反射に近いものだと感じるし、なにより、自分が無意識的に現実に適応できる人間だという根拠が全く見当たらず、かえってさっぱり未来が見えないのです。この適応能力をセンスと言うのだと思いますが、僕にはセンスの内容も、センスのある状態も、その時の感覚も、全てがわからないのです。