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ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

死んだ愛は、心の中で生き続ける

例の10冊読むアレであるが、網羅的なだけのつまらない本にいくつかあたってしまい、読んで考えたことではなくストックしている持論を展開するだけになってしまい感想文として成立しない状況になってしまった。まあ、読書に限らず、コンテンツの消費というのはそういうものだ。

 

前々から読みたいなと思いつつ読んでいなかった本がこれ。

 鶉まどかさんはTwitterのRTで流れてきたのを見たのが最初で、この人頭良いなあと思って、それからちょっとして本を出すらしいというのでウィッシュリストに入れたまま半年が過ぎていた。やっと買えた。

 

オタサーの構成員が代表するような"非モテ"の人間をサークルクラッシャーとして食い散らかしていた経歴のある人間というイメージがどうしても強いが、本書では、自身の生育した環境やいくつかの恋愛経験を踏まえ、クラッシャられの様子を分析している。

章のタイトルにもなっている「わたしたちは"お母さん"が欲しい」という言葉が、壊す側・壊される側の共通項であり、サークラという現象の本質であることを鶉まどか氏は指摘している。

つまりは、自分に対する承認が欲しいことがサークラの根本的原因なのである。家庭、友人、そして恋愛といった各種の関係の形における常識的な承認を得られぬまま齢だけを重ねることになってしまった人間の、単なる一つの結果の形に過ぎないように見える。一歩間違えば性的逸脱に走っていたかもしれないし、犯罪に走っていたかもしれない。それがたまたま、法的には健全な形で、人畜無害そうな見た目のひとたちの世界で完結しているから、今まで問題にならなかっただけなのではないだろうか。

僕自身は、サークラ的な誑かし行為自体を悪いこととは思わない。"姫"(サークラ∈姫 でも サークラ∋姫 でもないが、面倒くさいので姫と称す)が他人から好意を抱いてもらうために尽くすこと、非モテ男性が(珍しく)自分に好意を示してくれた人間に精神を捧げること、これ自体は、昨今ではよくある恋愛の形のひとつにすぎない。ここで問題なのは、ミスマッチである。多数にちやほやされ、恋愛関係よりも"モテ"を構築していく姫に対して、その構成員である非モテ男性が、一対一の恋愛関係を求めてしまうことにある。

著者は恋愛を題材としたコンテンツによる「自由恋愛」の押し売りを、"強制恋愛"だと揶揄している。サークラのような一方的に燃え上がり一方的に燃え尽きる関係性は幻想的な理想の恋愛像を抱くことによる悲劇であることをうまく表現していると思うが、この強制性はサークラに対する批判的な視線そのものにも当てはまる。オタクをたぶらかすビッチ、とか、あるいは勝手に勘違いを起こすバカなオタク、といった先入観を捨ててすこし冷静になって考えてほしいのだが、そもそも、姫と男性の間には、相互の承認しか存在しなかったはずなのだ。姫側としては理想的なポリアモリーの関係が成立しうるのである。お互い承認に飢えている人間なのだから、それ以上でもそれ未満でもない関係性を認めてしまえば楽になるのにと思う。姫と非モテの確執はこの本以後も深まるばかりであるが、その責任の所在も簡単に決定できるようになる。一対一の関係性を一方的に求めればそれは悪であるし、一対一の関係性を求めてくることを前提・期待として多数の関係を維持することもまた悪である。ただ、あまりに強固に恋愛像が形成されているために、こうした割り切りが難しいのも現実であるし、ポリアモリー的恋愛には抜け駆けを試みようとする"わかってない"人間がいるとすぐに破綻するが、サークラが起こるような場は往々にして、均衡を形成できるほどコミュニティの閉鎖性が担保できない。おそらく、この関係性を維持することは不可能なのだろう。そういう意味では、壊れることがわかりきっている関係であることを、少なくとも姫は知っているのだ。知っていてもなお、歪んだ形で承認を求め続けてしまうことの責任は果たして誰が負うべきなのだろうか。

 

サークラの関係性のもう一つの問題点は、一対多関係の多数側、すなわち非モテの側が姫側から切り離され、一方的な形で傷を負うことにある。世の非モテ男性が姫にひどく否定的であるのは、この関係性によるものであるのではないだろうか。「(〇〇が)好きだ」という言葉は、相手からの否定、もしくは新たに関係に入り込んだ第三者の介入によって簡単に打ち消される。ああ、あの時認められたのは偽りだったのか、と(とりわけ非モテ男性は特に強く、ときに被害者意識を持って)落胆する。一方で姫の側は大半の場合、相手から承認された状態のまま、関係が消滅するわけである。ひどく失礼な言い方をすれば、鶉まどか氏がこの本のような自信に満ちた文章を出版できるのも、こうして一方的に承認を得ることが出来ていたからである。もちろんそのためには相応の努力が必要であるし、本の中でもその努力は重要性をもって記されているが、それでも、こうした一方的あるいは相互的な承認獲得のサイクルへの最初の一歩の踏み場のない人たちを責めることが可能になるとはいえないだろう。

一般的な男女の、あるいは精神的にそれに等しいような恋愛に至るまでの関係性というのは、必ずしもオタサーに限らず対等ではない。先日、女装やMtF、ニューハーフの集うパーティーに参加したのだが、世の中には物好きも多いもので、何人かの男性から声をかけられ、つまりはナンパをされた。女性の精神の疑似体験をしたわけである。実際に体験してみてわかるのは、「求められることは悪くない」という自意識である。求められることには抗えないし、拒否をする積極的な理由もない。相手が気を遣ってくれているのは自分が何かの見返りを求めたわけでもなく、勝手にやっていることである。そんな感じの感覚を直感的に得ることが出来た。モテる男もまあこんな感じなんだろうが僕は非モテ人間なのでわからない。とにかく、このイベントは承認とお酒が無償で得られる大変良いものであったし、仮装をしているはずの自分が、本来的にこうあるべきだという錯覚すら覚えた。また失礼なことを言うと、サークラを行う姫も仮装と自己の区別が付かなくなっているのかもしれないと思った。女装野郎と一緒にするのはあらゆる点で本当に失礼なのだが、結局のところ、サークラの原動力というのは、承認を得られるような形で適切に自己を変容させたのだという誤った認識なのではないだろうか。

いずれにせよ、愛されることばかりに目を向けてしまい、自分が愛を与えるということを置き去りにしているという鶉まどか氏の指摘は的を射ていると思う。ただ、これは恋愛の根本的問題でもある。相手が自分を真に愛しているかどうかは、確認が不可能なのだ。それは同時に、自分が相手を愛していることは正確に伝わり得ないことも示している。相手に愛されるために極端な形で尽くす行為は確かに自分が相手を愛しているが故の行為ではないが、しかし、自意識でいくら愛し、愛に基づいて行動したところで、それは原理的に伝えることができない。真の愛が行動でわかるというなら、理解できる行動はいくらでも模倣できるので、よって、真の愛は行動ではわからない。結局のところ、愛されたい、受容されたいといった幻想と同様に、自分が相手を自分の思う形で愛するといった積極的な姿勢も、言葉としては美しいが、同様に幻想にしかなり得ないのだ。

 

……ここまで書いたところで、もしサークルクラッシャー時代の鶉まどか氏が目の前に現れて、僕に良い顔をしてくれたら、たぶん一瞬で落ちる。人は承認なしでは成長できない生き物であると感じるし、純粋な理屈だけでは本能には勝てない。しかし、だから本能に任せて良い、というのもまた違うと判断するくらいの理性もある。結局のところ、自分にとって都合の良い形を手探りで探すしかないのだし、サークルクラッシュというのは、その過程で起きる不幸な事故のひとつに過ぎないのだと思わされた。

卒業 pt.2

大学を卒業しました。昨年度入学したのにもう卒業です。早いものです。早いのは体感としてだけではなく、実際にも短い時間なので当然なのですが…。大学院をDLCと表現するのが好きなのですが、そういう比喩をするなら僕の大学生活は体験版だったと言えるかもしれませんが、導入じゃなくてオチの2年をやる体験版というのもあまり聞いたことがないので、変に比喩をするものではないですね。編入は編入であり、卒業は卒業で、2年間は2年間そのものです。

とはいえども、大学、とりわけ国立大学の工学部という場所がどういうところであるのかを知るには十分な期間であったように思います。高専とは違って本物のアカデミックの世界がありました。同時に、その存在が良いことなのか悪いことなのかは、市場に目を向けなければわからないことだとも思うようになりました。

就職にあたって、様々な人との新たな出会いがありました。僕の人脈は高専とゲームセンターでほぼほぼを占められていて、真面目に専門学校に行った人とか、文系らしく学外活動をしていたとか、そんな人たちとの遭遇は刺激になりました。理系の人とも知り合いましたが、失礼なことを言ってしまうと、アカデミックでない大学というのは大変に多くあるということを具体的に理解しました。大学院生が実績主義なのに対して、理系の学部というのは卒業にしか価値が与えられないものであり、いずれの大学を出るにせよ平等に与えられる価値しか獲得していないことに気がついたとき、編入・就職という選択ははたして適切だったのかという疑問を抱きました。論理的正当性のみが統一的な正義となり得るような社会というのは、案外アカデミックな場にしかないものです。テーブルマナーや芸術教養なんかと同じで、それを持っていない人間に押し付けるということは、そもそも無理なのです。

アカデミックの世界を垣間見ることが出来たという収穫の一方で、技能的な部分や知識的な部分についてはほぼ高専や独学で培ったものを利用するだけの作業であり、特段の収穫はありませんでした。予想はしていましたが、あまりに予想通りすぎて驚きました。

 

大学生としての2年間で一番大事だったなと思うのは、環境の変化があったことです。お金を十分に貯められなかったので下宿ではなく実家からの通学を選びましたが、それでも20歳にして初めての電車通学は、変化のきっかけとして十分に作用してくれました。人のいる場所に行く、お店のある場所に行く、という当たり前の社会的な行動が一大行事と化していた20年間の呪いを、多少は解くことができた気がします。人脈にしろ、能力にしろ、そして幸福にしろ、外出をするというのは重要だなと痛感しました。

 

学内・学外問わず刺激的な出会いがあったというのは、環境の変化による収穫と言えるでしょう。実は、高専でも刺激的な出会いというのはものすごくあって、今でも当時の同級生はだいたい尊敬をしているし、いまの僕は意識的にも無意識的にも彼ら彼女らの強烈な影響を受けて形成されているのですが、大学でもこうした刺激を受けれたというのは非常に嬉しいです。ゲーマーにせよ、いわゆるメイカーの人間にせよ、こいつには一生敵わないなという圧倒的な人間が同級生にいて、心をガシガシと揺さぶられました。

 

中学生までが人格の形成、高専時代が思想の形成を行っていた期間であったならば、大学での2年間は、これらの実践的な検証を行っていた期間だったと言えるでしょう。人格や思想のもと、実生活においてどれだけの効果が得られるか、また、外部からの衝撃に対して耐えうるか。もし耐えられなければ追加や修正を行い、補強していく。人格と思想が、ようやく運用の初期段階に入りました。

 

やはりモラトリアムは人間を豊かにしてくれるんだろうなあという実感が湧いた2年間でした。精神的なモラトリアムが必要だというのは幸・不幸の両面で痛感しました。時間的なモラトリアムは精神的幸福や能力の因子となるものだという実感もようやく湧いてきました。

正直なところ、退屈な時間も人間も非常に多く、とてもテーマパーク帰りのような感動はないのですが、振り返れば、様々な経験やそれに伴う思考をしたことは紛れもない事実で、それらを行える最後の猶予として貴重な時間だったという実感は、日に日に大きくなっていくのだろうと想像できます。だから一生モラトリアムさせてくれないかな、ビックになるからさ、頼むよ。

死ぬときは綺麗に死にたい、という誰でも抱く願望

二冊目はこの本。一冊目からのマジカルバナナ的に選んだ。

大往生 (岩波新書)

大往生 (岩波新書)

 

人はみな死ぬときに孤独である、と僕は思う。もちろん、死ぬ間際に人と触れ合いたいといった気持ちであるとか、人に囲まれて看取られたいとか死後良い評価をされたいとか、そういったものは孤独に完結しているものではない。けれど、自分の人生が真に終了するのだという実感が与えられるのは自分自身のみなのだ。大抵の場合、何かが終了するというのは、観測者自身にとってはある"変化"に過ぎない。仕事のプロジェクトが終了する、ローンの支払いが終了する、他人の人生が終了する。これらはすべて、今の世界が、何かが終了した世界に変化するだけであり、終了するそのもの以外は、新たな世界で生きていくことになるという実感だけが与えられる。しかし、自身の死だけは違うのではないか、と想像している。なぜなら、世界の変化を観測することができないからだ。自分が死ねば当然ながら観測者としての自分は"終了"するのだが、終了は変化であるから、この観測は不可能である。つまり、自分からしてみれば、自分は死なないのだ。

死ぬ直前になると穏やかになるとか、少なくとも取り乱すことはないだとかいった話がよくある。これは、自分が死ぬという実感がそれまで感じてきた無数の"終了"とはまったく異なるから、死という事象の想像が出来ていないだけなのではないかという気がしている。人の死は悲しいことだが、自分の死は自分にとって何ら変化を伴わないと感じるので、すなわちそれ自体には特段の感情を抱かないのだ、というのが僕の仮説である。

 

本の話をしなければならない。でも、僕は本を読む前に本を読む時間と同じくらい著者のことを調べないと気がすまない(し、そうしなければ意味が無いと思っている)タイプなので、まずはそこから。すごい失礼な言い方をしてしまうと、永六輔は典型的な(悪い意味での)"年寄り"だと思っていた。この人は文化について非常に保守的な人である。安保闘争に参加などしたのに、と思ってしまう。伝統文化を守れだの携帯は使わないだのと"老害"感がものすごい。ラジオは好きらしい。4G通信もラジオも一緒じゃねえかと思うわけで、もうよくわからない。

この本の内容は、死というのを身近に考えてみましょうという話である。身近という言葉はよくないかもしれない。とにかく、死というものをしっかり考えてみないと、死ぬときにどうしようもないよね、という趣旨である。養老孟司も、死を非日常とするなということを言っていた気がする。養老孟司と違うのは、これは理屈の本ではないというところだ。信じるも信じないもアナタ次第です、という言葉で〆た関暁夫以上の説得力はないし、それを感じたら負けだと思っている。

ただ、死の予感が明確な人たちの言葉というのは、軽視してはならないと思う。というのも、その人たちにしかない感覚というのが必ずあるからだ。これは、経験則とは異なる。個人の経験則に基づく人生哲学はその大半が単なる認知バイアスであり聞く価値などないが、そういった話ではないのだ。そういう意味で、有名から無名まで、様々な人の言葉が載っているという点で、非常に面白い。

日常生活の中で静かに死ぬ、質素な葬式をやってもらう、そんな"大往生"という特殊な形式が、画一的な夢と化しているのは非常に興味深いことだと思う。そんなことを言っている人で、そのように死ねた人は見たことも聞いたこともないので、病院で鼻やらなんやらに透明の管を差し込まれた非日常の状態で死ぬのがむしろ日常によっぽど近い死のあり方になってしまっているともいえるだろう。にも関わらず達観して、さも当然に実現可能かのように大往生を語るのは、いささか滑稽だと思ってしまう。僕が個人的に想像する僕の死は、少なくともそんなに綺麗なものではない。人に恨まれるようなことは絶対にしないという信条で生きてはいるが、人から愛される予感もしないので、路傍で餓死していることも、無縁塚行きになることも大いにあり得る。

信仰がないと自分の死を納得させることができない、という話が対談の中で行われていた。なるほど確かに、と思った。信仰は、未知の世界に対して迷わず行動する力となってくれるが、これは死に対しても強烈に作用できる可能性がある。僕は宗教の信仰がないが、肉体的に死んだら精神も連動して世界が終わる、というのは単なる信仰にすぎない。脳の機能が停止したところで、そもそも脳に精神があるかはわからない(とはいいつつ、まずあるだろうが)。そういう意味では、未知の事象を考えるときに、何かしらの信仰は必須なのだろう。

 

葬儀というのは自分たちの心理的不安感を解消するために行うのである、といったことを、2年前に祖父が死んでからお世話になっているお坊さんが言っていた。それは悲しみだけでなく、文化や世間体といったものからくる不安の解消でもある。

自分のやや悲観的な思想も、心理的不安の解消という点では根はまったく同じなのかもしれない。結局のところ、何かにすがるしかないのだ。僕はひねくれ者なので、なにかにすがらねばならないとわかってしまうと、何にもすがらず生きてみたくなる。そういった生き方に何が必要なのか、それとも何も必要ないのか、それすらわからないが、目指してみることは結構アリなんじゃないかと思ってしまった。そうやって生き方を貫き通すことが、それぞれの大往生に繋がっていくのではないだろうか。…もちろん、大往生などできはしないことも含めて。

ひとりが好きじゃダメなのか

ひょんなことから、3月のうちに新書を10冊読むことになった。それくらいの分量を読む月はあっても、いざ基準があると一気に身構えてしまうのはこれまで目標を定めて行動することがあまりなかったからかもしれない。もしくは、学生の身分で過ごす最後の月であるからかもしれない。

ただ読むだけでは普段と何も変わらないので、感想を書くことにした。というのも、しょうもない文章を長々と書けるのもしばらく出来なさそうだから。卒業旅行のようなものかもしれない。

本のチョイスも気にしなければならなそうな事情があるので、テーマに沿って読むことにした。"学生のうちに抱いた疑問や不鮮明な興味を学生のうちに解決する"ことが出来るような本を選んだ、つもり。

 

一冊目はこれにした。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

 

 森博嗣の本はなんか人気なのでひとつ読んでみたかった、という動機もある。

 

この本は、繋がり依存的な社会が人間的に浅薄だということを、浅薄な人間を怒らせないように気を遣いながら丁寧に言っている本のように思う。

述べられている"孤独"とは、すなわち承認から切り離されていることである。ただし、孤独は状況を示す言葉ではない。個人の主観における状況認識として孤独が成り立つ。

著者は「良い子」になろうとする心理を、孤独からの逃避としている。孤独恐怖症といっても良いし、承認依存といっても良いだろう。子供は成長の過程において、コミュニティのなかで、ある他者から「良い子」と評価されようとする。家庭内において親から見た「良い子」、学校の先生から見た「良い子」、さらには友達関係から見た「良い子」はそれぞれ異なるが、子供はそれぞれに適応して、全ての場面で「良い子」であろうとする。著者はさらに、いじめっ子も「良い子」の一種であるとしている。それが道徳的に悪くあっても、いじめっ子コミュニティの中では、一定の規範に則り行動を実行する「良い子」、その中でもとりわけ「役に立つ子」にほかならないわけである。

では、なぜ「良い子」であろうとするのか?という問が主題である。

現実の楽しさと虚構の楽しさというのがあり、虚構の楽しさの代表例として飲み会を示している。言われてみれば確かにそうだ。酒が好きなら一人で酒を飲めばいい。保存状態やポンプにこだわるビールのような酒が好きならともかく、日本酒や焼酎など、店に行っても同じ瓶が出てくるだけである。それでも大衆的な居酒屋へ行き、"会"をひらくのは、他者依存にほかならない。他者がいなくなれば途端に意味を成さなくなり、一種の絶望感に襲われる。

これは典型的な依存のサイクルである。飲み会が好きな人間の多くは、もはやその会での主目的は、一緒に酒が飲めるくらいの"仲間"であるという関係性の確認だけにある。酒を飲み語り合い笑い合うというような楽しみとは異なるものであり、本来の仲間的関係は成り立っていない。さらに言えば、関係性の確認は不可能である。結局のところ、相手が自分をどう思っているかはわからないし、他者に認められているという自己判断でしかないのだ。しかし、それが唯一的な楽しい状態であると誤解をしているからこそ、このサイクルから切り離されることは恐怖なのである。

 

著者は工学博士の人なのだが、本の半ばで面白いことを言っている。孤独はサインカーブのようなものである、という話である。ただし実際はそんなに単純なものではなく、大小かつ周波数の異なるカーブが複雑に足し合わさっている、ということも言っている。つまりフーリエ級数展開可能であると言っているわけだ。さらに、孤独(ポテンシャル)の1回微分によって得られるものは、感情変化の速度であると述べている。さらに微分をすると、加速度が得られる。力、すなわちここでは努力に比例するものである。微分をするとπ/2ずつズレていくわけだが、つまり、寂しさを最も感じるのは、孤独への移行途中のまだ"孤独"でない状態のときであり、最も孤独なときに、もっとも努力が行われるということである。そして同時に、最も孤独であるときには、すでに孤独感は上向きになり、すなわち最大の勢いを持って前向きに思考しているということである。

これは、物事を行う際に共通のことのように思える。孤独を物事、孤独感の解消を目的一般というふうに置き換えてみれば、物事の目標達成から最も遠い状態であるときこそ、最も努力を行うし、努力を行っている(行えている)状態というのは、物事への不安感はようやく解消され、期待へ移行するということだ。繰り返すが、その時点では目標達成から最も遠い状態に居るにかかわらず、である。

僕は、期待は動機としてたりうる、と考えている。でなければ、最低な状態のときに努力を行うことなど到底出来ないからである。保証もなく、現状もろくでもないのに、どうして努力が行えようか。それは純粋な期待にほかならない。個人的な話をすれば、だから僕はお金稼ぎが好きだ。お金稼ぎをしている時間はもっとも娯楽から遠い時間であるが、お金はよりよい娯楽を得るための必要条件であるから、労働を行うためのモチベーションにつながる(もちろん、他の心理的ストレスで滅入ることもある)。ここでは、目的が娯楽で、努力が労働である。だから僕はキャッシュバック目当てで携帯を契約するその瞬間が好きだし、期待値の高い台を見つけたその瞬間が好きだ。

 

話を戻そう。著者は、虚構でない現実の楽しさを得るための手段として孤独を勧めている。ここで思ったのが、孤独というのは、哲学を実験するにあたり優秀な手法である、ということである。純粋な認識や純粋な思考を抽出する取り組みは、哲学の根本的な問題として取り扱われてきたが、孤独というのは、ある種"禅"のように、純粋理性を抽出する装置として機能しうるように思える。孤独から生まれる現実の楽しさというのは、すなわち自己認識で完結する世界であるからだ。

理性を育てれば、社会の流れとはときに相反することがあるかもしれない。著者はそういった例として、結婚を挙げている。結婚をしないことを積極的に行う人たちの出現は、結婚し子供を産み育て家庭を持つことが幸せであるというプロパガンダとマーケティングの融合した価値観を、孤独の立場から再検討した結果だということである。こうした世間的な常識に従うことは、「良い子」であろうとする承認を獲得するための手段として無意識に利用されていて、また、それだけ繋がりを重視するように教育されてきた結果だといえるだろう。

 

さて、この本で一番面白いな、と思ったのが、読者に釘を刺すところ。天才はこうだけど、お前らは絶対天才じゃないから安心していい。もちろん俺も同じだ。みたいなところ。技術者教育を受けたことのある人というのは、結構こういう凡人自認がある。自分を矮小な存在だと認識しているもったいない人というのは、工学の世界には結構いる。それは学問を教授する上で便利な価値観だったから与えられただけかもしれないし、あるいは価値尺度の根本的な違いかもしれない。いずれにせよ、存在の大きさというのは得られる価値に影響をあたえるので、孤独であることで真の楽しみを見つけつつも、他人からの承認というのは意識していくべきではあると思った。自己実現欲求とは別に、安全欲求として。

あまりに華美な女性をどうしようもなく苦手な理由

僕は"地味"な見た目の女性が好きです。"シンプル"ではなくて、地味です。

ダサい、という概念ともまた微妙に違って、なんというか、垢抜けない感というか、服装とかの流行に気を遣ってないなとわかる人が好きです。

 

自分が根暗だから波長の合いそうな根暗っぽい人が好きなんだろうなあ、今まで考えていたんですが、なんだかそうじゃない気がしてきました。

 

これ、たぶん、地味な見た目の人が好きなんじゃなくて、華やかな見た目の人が極度に苦手なだけです。

世の中の大学生とかキラキラ社会人とかにも訊きたいんですけど、華やかな人って怖くないですか?意識的にも無意識的にも何らかの危害を加えてきそうじゃないですか?というか頭弱そうじゃないですか。いま、あなたの隣りにいる女性と、マトモな日本語とマトモな論理で会話を10往復できますか?

 

ファッションの意義を否定しているわけではないですよ。でも、あまりに見当違いな解釈をしている人が多すぎませんか?と言いたいのです。

ファッションに関心を持つことは、他の趣味を持つこと同様に良いことだと思います。でも、それはその人の価値ではありません。着飾ればそれが魅力に直結し価値となる、という短絡的な思考や、"魅力"という他者基準の尺度をさも普遍的であるかのように自称することすらある、そういった、ファッションにおける間違った共通認識が嫌いなのです。

多くの人が、ファッションを気にかけていくうちに、世間の風潮としての、流行としての、個人個人の、そして自分自身の"おしゃれ"を混同しているように見えます。そういった枠組みから外れた、仏教的に言うならば無縁の存在であるからこそ、僕は地味な人が好きなのだと思います。それは単純な無知であり、理想化です。なぜなら、地味だからといって論理立った思考をしているかは全くわからないし、そもそも、価値観の混同をしているように見える人だって、周囲の人がそうしているから、生きやすい環境のためにあえて誤謬したフリをしているだけかもしれません。

 

結局のところ、人の内面を判断する特徴量としてのファッションは、あまり優秀ではないのです。でも、ファッションは、そこから人格を想像させることも大きな目的のひとつですよね。それっておもしれぇなぁって思って

年収が1000万円を超えたらやりたいことリスト

  • ソフトクリームメーカーを自宅に置く(業務用のやつ)
  • ソフトクリームメーカーのために200V電源を引き入れる
  • 消費電力高めの自鯖をつけっぱにする
  • ホームセンターとかIKEAとかニトリとか以外で家具を買う
  • フルサイズ機を買う
  • 築年数10年以内の鉄骨造の部屋に住む
  • 新車で壊れにくそうなバイクを買う
  • タクシーに乗る
  • 新品のスピーカーを買う
  • 4列じゃなくて3列の夜行バスを使う
  • 3口のコンロ、グリル付き
  • 124パセリ
  • 運賃じゃなくて時間でソート

あけおめ的な

あけましておめでとうございます。去年までにお世話になった方も、新しく出会う方も、今年1年どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

もうすっかりアニメの振り返りなどする気はなくなってしまって、昨年に引き続き何も書いていません。というか、もうアニメもろくに見ていません。去年まともに見たのはえとたまぐらいでしょうか。面白くないアニメは切る、前評判の芳しくないアニメは切る、でも流行りのアニメだけは内容を押さえておく、というような数年前の自分が一番忌み嫌っていた存在に成り下がってしまったんだなと痛感します。

大好きだったアニメに限らず、信念という概念そのものがどこかへ飛んでいってしまったような感覚です。決めたことは決めたどおりやる人間でしたが、場合によって判断を変えてしまうことが多くなったような気がします。人並みに臨機応変になったという点では単に良いことなのですが、昔の自分と比較して変化が起きていると、なんだか不安になります。あと、ようやく自己認識ができるようになった、というだけの話かもしれません。よくよく考えれば昔から飽き性で、いろんなゲームやらホビーやらなんやらを放り出していた記憶があります。そういうときに、意志の"始まり"ではなくて"終わり"に注目するようになってしまっただけなのかも。

こだわりって、有ったほうがいいんでしょうかね。自分にはすっかりわからなくなってしまいました。結局のところ、こだわりというのは逆張り的なものなので、世間に迎合してしまうほうが良いのでしょうか。何かにこだわってアイデンティティを形成することは、必ずしも自己の幸福には直結しないのではないかと考えるようになりました。むしろ歪んだ形で形成されたアイデンティティは、一度、世間をモノマネすることによって消滅させる必要がある気すらしています。幸せになるための土壌としての自己を用意しなければ、実は何も始まっていないのではないでしょうか。

 

ともかく、今年は強制的に変化が与えられることになります。うまく卒業できればの話ですけど。自分で言うのもバカ自慢のようでアレですが、少なくとも大学の同級生たちや内定先企業の同期たちよりは、底辺の世界が大きいものであること、そして狭い世界であることを知っている自信はあるので、どんな形であれ生きていくこと自体は出来るだろうという妙な余裕があります。昨年の10月頃からは久々にゲームセンターに通いつめてみましたが、土方のおっさんがこれだけの金額をつぎ込んでゲーム出来ているなら、自分もそこそこ楽しく生きられるんじゃないかと思ってしまいました。

 

ところで、恋愛には、もはや一切の希望が持てなくなりました。結局のところ、自分は歪んだ育ち方をしてしまったので、健常な人間は寄り付かないのです。歪んだ人の中には極端に自己を尊重する人と、極端に自己を卑下する人がいるということをよくよく理解できましたが、自分はおそらく後者なので、人に迷惑をかけて自分が幸せになることすら出来ません。そのくせに、与えられなかった分の承認を取り戻そうと必死なので、端的に言って完全に詰みです。愛情には敏感なつもりでいるので、お金で得た承認が人格を評価するそれと異なることはすぐにわかるので、成金的・小金持ち的な女遊びの愉しみ方も自分には一生理解できないのでしょう。

 

幸せにはなれないのではないかというぼんやりとした不安が、いよいよその輪郭が鮮明になり、確信へと変わってきました。自分なりに色々ともがいてはいるものの、本質的な部分には一切触れられていないように感じます。答えはどこにあるのでしょうか。証明問題は「解なし」であることを示すのが一番大変だという話がありますが、まさに今その導出作業をしているような気がしてなりません。解が得られるか、それとも解なしであるか、いずれにせよ何者にもなれないまま終わりたくないのですが、きっと何者にもなれないのでしょう。