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ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

情報系のあれこれ、高専の優位性

高専っていう環境は結構特殊だなあと、卒業してから時間が経つごとにだんだんと実感してきました。どんな異常な環境も、その環境下ではその異常性をほぼ認識できないものです。

「結局のところ、高専ってどうなのよ?」ってネタ大好きなので(自分も不定期的にやる)、この記事を読んで思ったこととか適当に書きます。

 

shopetan.hatenablog.com

 

 

情報系を志す中学生の分類は大体合っていると思う。ただ、ひとつ気ににしなければいけないのは、「仕事にしたい」人、つまり、学びたいというよりも学んだという証拠がほしい人と、純粋な「勉強したい」人とのの区別。

勉強をするなら、高専への進学は概ね間違っていない選択だと思う。受験の過程で身につくような"一般教養"の不足は、情報系の分野を勉強したいという強烈な情熱を持ったひとはあまり気にしていないように見えるので、あまり後から後悔して自我と将来がセットで揺らいでしまうみたいなことはないのではなかろうか。大学編入をしても、高専生はなんやかんや真面目なのと圧倒的な専門知識の貯金があるおかげで優秀な子ポジションをキープしている。大学入りたての子にありがちな「遊ぶ奴が一番賢い」みたいなわけのわからない空気と無縁なのも良いんじゃないかな。

一方で、勉強そのものにはあまり興味はないが、仕事にしたい(その業界/業種で働きたい)がために学校に行く、となると話は多少ややこしくなる。というのも、高専自体からの就職は、実はあまり良いものではない。

高専では,就職はワイルドカードを使っていると言っても過言でない.
これはおそらく殆どの高専がそうであり,高専の卒業者は大手のメーカに勤めていたり,大手のインフラ系に勤めているケースが少なくない.
また,情報系に限った話ではなく,これは一般的な高専生の就職先のケースとして挙げられるものである.

という話だけども、実際には、たぶん情報系学科は他の学科と比べてこの点での優位性を持っていない(学校間で結構差があるけど)。機械や電気は有名企業に入れる人が多いが、情報系になると、有名企業の子会社であれば御の字だろうという世界になり、昔から続く中小ソフトハウスに行く人も珍しくない。採用が厳しいほど、昇進もまた厳しい。学部卒・院卒がたいした実績もなく先に昇進していく、というのはよく聞く話です。

これを解決するキャリアプランは2つあって、大学に編入学してしまうか、完全実力採用で流行り技術どんどん使っていきます系ベンチャーに自分を売り込んでいくかがある。

 

ちょっと一旦話を脱線させると、高専生の評価が高いというのも2種類ある気がしている。というのも、「Fラン大卒よりはマトモ」というのと、「高専には本当にスゲエヤツがいる!」というもので、前者は大多数の卒業生が形成して多くの息長い会社が認識していることで、後者はほんの一部の社交的かつ優秀な人が形成している、肉焼く逆求人イベントとかに来るような会社だけの認識のように思う。

情報系、とりわけプログラミングとかセキュリティの勉強に積極的な人は、たぶんベンチャーを探せば社風とか業務内容がかなり合致したものがあると思う(ていうか、勉強会とか行くとWebベンチャーっぽい空気が充満してて染まる)ので、後者の評価を与えられる人になるべき。

ただ問題なのは、"普通の大企業"に行きたい人たち。さっきのキャリアプランの話に軌道修正すると、結局のところ、高専からは大企業を狙うのは難しい(ちなみに学部卒でも難しいので、とりあえずみんな院に行く)。インターネット上だと技術活かして面白いことやるのを仕事にしたいっていう高専生は多いけど、その逆の、仕事に求めるものが面白みよりも収入だったり生活の長期的安定性の保証だったりする人というのはあまり声を上げない。でも、サイレントマジョリティとして確実に存在している。こういう人は妥協して先に挙げたような高専生の典型的な就職先に行くか、編入でロンダしてから別の学歴の皮を被って就活する。高専にメリットありますか?という話になると、ちょっと疑問視せざるをえないかなというのが率直な感想です。

 

逆に言ってしまえば、純粋に勉強したい人(上のエントリは、そういう人だけを捉えての話だと思う)は、高専に入ってデメリットらしいデメリットってないんじゃないかなと思う。最近の情報系の賑やかな界隈で使われているような技術・技能なんて、なにひとつとして大学でもやらないので、そういうのがやりたければ勉強会やらに行く必要とかがあります。みんなが大学受験している間にクソ暇な時間を活かしてそういう場所に足を運んで、みんながはじめてのC言語で苦しんでいる間にバイトで雇ってもらうなりCTFやら競プロに出るなり、みたいなことができる時間的優位性こそが魅力なんじゃないかなあと思っています。

編入にしろ就職にしろ、スキルと実績でガンガン殴っていけば意外に拾ってくれるところは多い印象なので、進路を気にせず専門的な勉強をしたい、高専出てからも情報系の流行りモノ界隈で生きていきたいって人はめっちゃいい選択肢なんじゃないでしょうか。

ミソジニー

僕は女性が苦手だ。

この感覚は、強いていうなら恐怖に属するものである。それは、女性個人から理不尽に否定された経験ばかりで対等なコミュニケーションをした時間が他人よりも希薄だったからかもしれないし、女性の形成するホモソーシャルやそこで生まれる文化がいまいち理解できなかったからかもしれない。

理由は漠然としていて掴みどころがないが、とにかく、女性と話すときは身構えてしまうし、汗も病的な量が出る。たぶん、頭も回ってない。

 

女嫌いのことを"ミソジニー"と呼ぶのだという知識をどこからか得た僕は、検索で引っかかった上野千鶴子氏の本とかを読んでみた。今回はこの本の感想とか書こうと思う。

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上野氏といえば有名な社会学者で、とくに、日本の女性学史においては永遠に語り継がれるであろう人である。フェミ系のジェンダー学ならまずこの人の名前が出てくる。

 

人気な本で、要約文みたいなレビューもそこら辺に沢山転がっているので、諸々を端折って結論から書くと、これは言葉の乗っ取りだと思ってしまった。

 

上野氏の語るミソジニーは、単に女性への恐怖や嫌悪という話ではない。それどころか、僕は真逆だとすら感じた。

大多数の男性が女性を一種のモノのようにみなし対等な関係を拒む様と、その背後にある男性ホモソーシャル内における承認条件としての女性所有、そしてさらには、男性から欲望される側の存在に"させられた"女性が性的主体になれないこと、これらを総称してミソジニーと上野氏は呼ぶ。

これは、「男性社会によって定義された性的主体/客体のあり方を肯定するか」という問いにYESかNOかという話である。ただし、これにはジェンダー対称性があり、男性は根付いたミソジニーゆえにYESと言い、一方でミソジニーをもつ女性はNOと言う。結局のところ、男女に共通するお話のように言ってはいるが、問が同じというだけだ。男女のミソジニーの性質は、その性的関係性のあり方のように、真逆なのである。

ただ、共通する点はある。それは、この問に対してNOを突きつけた人間は、社会のはみ出し者として扱われるという点である。

 

男性ホモソーシャルにおける男同士の承認のために女性関係が利用されてきて、男の価値尺度をそのまま女性に利用させたという旨の話は、おおよそ真実である。しかし、少なくとも現代では、必ずしもそうではないようにも思える。

ここでいう尺度とは、金銭的余裕や容姿を指す。男性が自身より劣った女性をパートナーに好むという指摘があったが、その時に利用されるのが、これらの価値であるという。そして、価値で劣ると、ミソジニーを持つ男性は不服なのであるらしい。よって、女性はこの尺度を受け入れるしかない、という展開がされている。

 

本当にそうだろうか、と思わざるをえない。

容姿はともかくとして、金銭的余裕、というのは、単にその人の人間性の価値に限らない。女性に金銭的支援し、それほどぼくはきみを愛しているんだ/わたしはあなたに愛されているのね、と思う/思わせるような(一部の男性が作り出し、いまではすっかり多数の女性に利用されている)恋愛テクニックが存在する。

僕はこの理屈が大嫌いだ。理由は簡単で、それは愛ではなくて、自由経済社会で他人から得た利益なだけだからだ。さらに言い換えてしまえば、お金を頂けさえすれば、その提供者は神でも仏でもいいし、何もない空間でもよい。いわゆる愛情はあくまで感情の変化以上の効果を生まないが、経済のある場所では、それはこれ以上なく普遍的な価値であり、また、それは決して個人の恋愛感情に還元されるものではないように思う。

 

「女はカネについてくる」と堀江貴文は言ったが、この行為は、自身の価値を高めるために行っているようにしか思えない。本ではこれを男の用意した価値尺度に従わされているだけだというように解釈していたが、そうではなく、「愛情(の表現)を得るために金銭を払う男」と「愛情(の表現)を提供し金銭を受け取る女」という、ひどくドライかつ単純な経済的関係に思えてならない。最近流行りの「女は容姿を整えるのに大変お金がかかっている、だから奢ってもらうくらいは当然」というロジックは、これ以上ない証明となるだろう。

……まあ、根本が男のせいか女のせいかっていうアホらしい歴史認識の問題にしたいのであれば、今の資本主義社会も男が作ったものだろうと言われれば何も言えないのだが。

 

ジェンダー論ではフロイト先生のお話が未だに現役である。トンデモなオカルトネタでも独立であれば決定不能命題となるよい例である。が、僕も下ネタは好きなので、少し語りたい。

僕はしばしば、「精子を飲めてこそ愛」と表現することがある。

これは女性に奉仕しろと言っているのではない。僕自身の主観的な経験からそう言うのである。その人間を愛していればその人間の全てを肯定できるはず(というか、出来てこその愛)だからだ。自身がサディストだとかマゾヒストだとかに関わらずだ。性的主体にも性的客体にもなることが可能であるという関係こそが対等であるし、それが愛であると思っている。

 

……そう思ってはいるが、実際にはそうではない。だから、「それが愛であってほしいと願っている」くらいが正確である。

ここまで来てしまうといよいよ疑いがないのが、僕がこの本で指摘された男性ホモソーシャルの社会にまったく馴染めていないことである。フェミニズム的視点で見ればこれは喜ばしいことで、それはミソジニーを持っていないからだ。ただ、僕自身がいかに人生を幸福に終えるかという点でみれば、これは最も悲しむべきことのひとつである。

社会が成立してしまっている以上、その社会の価値尺度で認められない人間は概して幸せになれない。本の中でも「ブス」が女性のホモソーシャルで女性として扱われず、実はそれは男性ホモソーシャルの価値尺度で否定されていることとまったく同一の事象であるということが指摘されていた。価値の無い人間や、それに従うことを拒む人間は、共同体での承認が得られない。

僕はあまり愛情を得られずこの年齢まで来てしまったので、人並み以上に他人からの承認が欲しいし、人並みに恋愛感情も抱く。だが、ホモソーシャルの承認が得られない以上、男性だけでなく、男性社会に尺度によって相互に価値付けされる/することを認めている(認めさせられている)女性たちからもまた、承認は得られないのである。

この社会に適応できない男性のように、この社会に適応できない女性もまた、幸せは遠いものとなる。男性に構築された社会に対して、経済的利益という追認を無意識的に与えながら適応していくほうが、まだ幸せになれるのである。結局のところ、男性ホモソーシャルによって構築された世界に適応できる権利を与えられた女性であれば、たとえそれがミソジニーを持つ女性であっても、いちいち非ミソジニスト男性に構っているより、ミソジニスト男性を主体性を自覚しながら利用してしまったほうが明らかに"得"なのだ。

 

この本では、息子は父が母を支配する様子を見て父に同一化し母のような女性を求め、一方で娘はその逆だという、ミソジニーの再生産が指摘されている。

僕には物心ついた時すでに父がいなかったので、幸か不幸か、こうした再生産のサイクルから脱出したようである。社会の再生産のサイクルに乗れないというのはつまり"非常識"であるということであり、追い出されてしまった、と言うのが近いのかもしれない。子供には全く顔も姿も覚えられておらず、それでも毎月の養育費を払い続けている様子はむしろ、女性の支配だけを強く印象付ける。

 

僕の女性に対する嫌悪は支配に対する恐怖だと思うのだが、上野氏にうまいこと言葉を取られてしまったので、ふさわしい言葉を知りたい、というお話。

性別による思考の違い

僕は、インターネットでいわゆる“童貞芸”をやる。童貞芸という言葉は辞書に乗っている言葉ではないので先に定義をしておくと、典型的な童貞特有の目線に立って物事を見て、そして語るという一連の行為を意味するものである。

たとえば過度に自虐的であったり、もしくは非童貞や女性を敵視した発言がそれにあたる。童貞芸、という言葉を使ったのもまた1つの自虐である。他の人のそれがどういう意図のものかは別にして、僕は本心として思ったことを述べているだけであるが、それを他者から見たときに、まるで一種の芸のように滑稽さをもっているということは否定出来ない。反応を見れば明らかなことだ。

そうした発言をすると、批判を受けることが多々ある。もちろん、女性という広すぎる範囲の対象にレッテルを貼るような見方をしていることには、当然批判があるものだというのは承知しているつもりである。

これは一部の男性を敵視するような発言をしたときも同様である。……と言いたくなるところだが、そうではないのが面白いところで、このときも、批判をしてくるのは大概にして女性なのだ。これには非常に驚く。

受ける批判は、議論的な直接的批判というよりも、人格攻撃である。そこには一般性はなく、的確にその個人だけを対象とした言葉が並べられる。

 

僕はここでその人格攻撃について批判や愚痴を言いたいわけではないし、攻撃性そのものもここでは取り上げない。注目したいのは、思考における対象の個人性である。

男性はとりわけ、物事を考えるとき一般化をすることを考えがちであるように思う。ある事に対する共通項を見つけることで、できるだけ広い範囲に同じ理屈を適用することを考える。「最近の若いヤツは~……」という語り口はその典型である。

一方で、女性は先に挙げた例からもわかる通り、その対象についてのみ注目することが多いように思う。モテ・非モテ議論のような男女の非対称性について語られることの多い場所では、「男だからではなくお前がダメなんだ」という理屈を語るのは必ずと言っていいほど女性である。

 

完全に持論の域を出ないのであるが、この思考手順の根本になるものは何かと考えてみると、それぞれの性別において自身のアイデンティティをどこに置いているかという点にあるように思う。男性は"男"、"童貞/非童貞"というように、自身の属するカテゴリの中でなるべく大きいものに自己のアイデンティティを確立している。女性においては、こうした包括的カテゴリに属することを認めながらも、それと同時に、カテゴリの統計的傾向とされているレッテルには拒絶反応を示すこともまた多い。

男性はよく、"オタク(キモオタ)"を自称したがる。それは、自身をあるカテゴリに属させ、その典型となる行動を取ることでアイデンティティを確立するためである。しかし女性は、たとえば"オタク"あるいは"腐女子"を自称することはあっても、その典型となる、いわゆる"痛い"行動をカテゴリに対して指摘されると、自身には当てはまらない、と振る舞う。これは男性に見られる一種のなりきり芸的なアイデンティティの確立方法とはある意味で真逆の行動とも言えるだろう。女性は本来的にも属するだけでなく、自身もそれを認識しているはずのカテゴリをあえて否定することで、自身のアイデンティティを確立しようとしている。

これは男性批判をした時に女性が批判者のメインとなる現象からもわかる。なぜ女性たちが、自身の決して属さないカテゴリへの批判に対して、時には感情的にまで反論するのか。それは、その男性批判はつまり恋人に対する批判だからである。女性は、恋人という他とは異なる唯一無二の存在に対してアイデンティティを見出しているのである。

 

もしかすると、フェミニストであれば、それは社会で働く男性と、働くことを否定された女性の社会的強制によって後天的に生まれた性差であり、これは男性が生み出したものだ、と考えるかもしれない。

 

僕は、社会的に男性と女性は平等にはなっていないと思っている。また、生まれながらにして脳科学的に、あるいは医学的に解明できる形で差があるからなのか、それとも社会に対する適応機制のような形で変化していったのか、あるいはそのどちらもなのかは分からないが、男女の考え方の違いには埋められられないほどの溝があると考えている。この男女の違いに対して、一概にして男性のほうが優れていると言う気もなければ、同様に女性のほうが優れていると言う気もない。

ここで言いたいのは、その差があるがゆえに、得手不得手があるということである。例えば男性は、物事を一般化するのが得意である。そうした考え方というのはまさに学問のアプローチそのものである。マーケティングなどでも同様だろう。とくに理系では女性研究者が少ないということが嘆かれているが、それは、男性に多く与えられたスキルを必要とするからのように思える。物事を一般化して整理し、次のことを論じる土台を作るという一連の論理的工程に、男性は女性よりも向いているように思う。

逆に、女性は、自己に自己のみの特殊性を与えることでアイデンティティを確立しているから、創作活動などに向いているように思う。というのも、男性では、あまり学問的なアプローチを重視し過ぎると、自分の存在自体というものを忘れてしまうことが多々あるためである。自己と他との差を強く認識することで、自分の性格的個性を表現するという点においては、男性よりも圧倒的に優れていると感じる。画一的でない表現というのは、突然変異的な作用をすることもある。そう考えてみると、この男女の差というのは、生物学的必然といえるのかもしれない。

幸せって、平等なの?

みなさんは、今、幸せですか。

 

主観的な幸せについて、次のようなロジックがあります。ある出来事が幸か不幸かを決めるのは自分だから幸も不幸も自分の気の持ちよう次第でどうとでも変わる、というものです。

また、この考え方に関連して、幸せは平等に訪れる、というちょっぴり宗教じみた言説を聞いたことがある人も結構多いのではないでしょうか。

 

ポジティブさこそ幸せの源だ、と考えつつもいつもネガティブな方にばかり思考の傾く僕はこういったプラス思考の理論をなんとか取り入れようと心がけているので、すっかり納得しかけていたのですが、よくよく考えてみれば、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だなと気がつきました。

 

事象そのものは平等で個々人の幸/不幸ボーターによって幸か不幸が決定される」という平等モデルについて、真っ向から反論したいと思います。

 

単純な思考実験によって反証が出来るのではないか、と考えました。それは、「自分がある他人と、思考以外の全てが入れ替わることになった時、どう感じるか」を考えるというものです。もし平等論を説くならば「そんなことができるなんてラッキーだ!」と思ってもいけませんし、「あんな人間とは入れ替わりたくはない」と思ってもいけません。同じだけの事象が得られるはずですから、思考さえ自分のままであれば入れ替わっても問題がない、というのが平等モデルのスタンスであるはずです。このとき、入れ替わりに対して何らかの損得を計算できてしまうならば、それはなにより平等ではないことの証明になります。

 

もちろん、同一の事象に対して個々人の捉え方が違うのは否定しません。しかし、それぞれの考えを持つに至った経緯に、平等性があったと言えるでしょうか。人の脳のはたらきが、それまでの体験によって大きく異なってくるということは、すでに常識となっています。その体験は平等に与えられたものでしょうか。違うと言ってよいでしょう。

 

私の持論を言ってしまうと、幸福な人ほどどんどん幸福になり、不幸な人ほどどんどん不幸になる、と思っています。

ネガティブな傾向の人にはネガティブな事象が、ポジティブな傾向の人にはポジティブな事象が降りかかる、という話を私は否定しません。鶏が先か卵が先かという議論にはなりますが、ネガティブな傾向の人にはネガティブになるべくしてなった理由があり、それならば、ネガティブな傾向そのものではなく、その理由について現在の結果と因果関係がある、ということ自体は肯定すべきものだと思うからです。

不幸な人は、心理学的な説明で言えば、欲求階層の上層にたどり着くことは永遠にない、と考えています。それは、環境的な問題によって、すでに現在の階層の欲求を満たす方法を失っているからです。逆に、幸せな人は、上位欲求を満たすための土台に立てているわけですから、あとは一段一段登っていくだけです。

 

つまるところ、レールに乗れているか、既に脱線しているのか、という話なんだと思っています。こぼれてしまった人達は、もうあがいても無理です。せいぜい、レールの上の人達を無理やり引きずり下ろすことを試みるくらいしか出来ません。

同時に、自分がレールの上にいるのかどうかは、結果論でしか確定しません。だから、最終的に自分がどちら側の人間であったとしても、今どれだけ自分の居場所がはっきりと見えてきていても、レールの上にいると信じて行動するしかないのです。

 

そう考えれば、人生はただのギャンブルです。自分がどこにいるかがどれだけ見えてきているかで、期待値がどんどん定まってきます。

あなたの期待値は、プラスですか?

リクルートスーツはなぜかわいいのか

リクルートスーツ文化って本当によくわかりません。100歩譲って、スーツを着てくださいという慣習自体は良しとしましょう。でも、ちょっとでも柄があったらダメだとか、色が黒以外だったらダメだとか、度が過ぎていると思いませんか。まあ、「スーツを着る」というのが単なる社会的慣習であるように、「スーツは黒無地」というのもまた慣習として成立してしまっているので、同様に仕方ないと思うべきなのかもしれません。

 

ところで、リクルートスーツの女の子ってかわいいですよね。僕は別にOLモノとか新人教師モノとか好きではなくて、制服モノが最高だなと思うんですけど、女子高生よりも就活中の女の子のほうが断然どきっとしてしまうのです。

 

大学生+スーツという、僕にとって全く心惹かれない2つの要素が組み合わさったとき、どうして大きな魅力が発生するのか、とても不思議で不可解だったので、僕なりにその理由を考えてみました。

 

結論から言ってしまうと、「儚さ」にあると思います。

リクルートスーツは、社会からの強制にほかなりません。しかし、そこに自己が存在しないのか、というと、それもまた違います。そこには、強制力に従順になることを自ら選択したその人があります。自分の意志で、自分を捨てることを選んだのです。同時に、これは選ばされたことにほかなりません。建前と実際に差があるとき、人の心はとても不安定になります。心が不安定になるということは、自ずと行動にも不安定さが表れるということです。

また、この強制力に従っているという事実そのものも、非常に奴隷的であると言えます。権利が対等でなく、自由を強く制限された中でだんだんと自意識が揺らいでいく一連の過程を想像すると、それは非常に倒錯的な魅力があるように思います。

こうして、きわめて脆い土台の上に成り立っている存在だからこそ、なんとも形容しがたい魅力を感じてしまうのだと思います。

 

 

あ、男性に対しては「鼻につく」か「頼りなく見える」の二通りの感想しか持たなかったのですが、考える気にもなりませんでした。

可愛さに性別は関係ない、という持論もそろそろ無理があるのかもしれません。

大学に通ってみた

みなさんこんにちは~。今日はですね~、大学に通ってみたいと思います!!

…Youtuberってこんな感じで大丈夫ですかね。

 

この一年間、大学では「ヒモになりたい」という言葉が何度口から漏れ出たことか。とはいえ、大学に入ったからには物事をより一層工学的アプローチで捉え改善させていく必要性を感じ、この当初の欲望を「好きなことで生きていきたくない?」程度まで現実的な形に落としこむことに成功しました。

こんな事ばかり言っているので、友人諸氏からは呆れられっぱなしです。すっかりバカ扱いですが、実際バカなのでこのポジジョンには安心感があります。しかし、大学で馬鹿キャラがモテないということも知りました。知的聡明な優男っぽいヤツがモテる。これが大学に一年間通って得られた結論です。そう、僕はキャラ付けを間違えてしまいました。

後からどうしようもないことは悔やんでも仕方がないと言う人がいますが、現実問題として幸せから遠のいてしまったし、なにより無意識的に社会に順応していくことが出来ない人間であることを自覚させられることって、普通に辛いと思うのですがどうでしょうか。

 

そんな感じで、一年間過ごしていました。一年間というのはとてもあっという間でした。今振り返れば、"あっという間"にした原因は大学がその大きな部分を占めていると思うので、僕は大学が嫌いになってしまいました。

学歴を貰って生涯年収を増やすために大学に入ったので、楽ちんな授業か、そうでなくともせめて為になる授業かのどちらかを期待していたのですが、どちらにも満たさないクソみたいな授業ばかりで僕の気持ちは萎え萎えです。編入生がいっぱい授業を受けれるように3年次は授業が多くハードになっている、という内部生向けの方便を教授が使っているなんて話も聞きましたが、人にヘイトを擦り付ける道徳の欠片もない言い訳を使うならせめてクソだろゴミだろウンコだろと言われない授業をしてほしいものです。

 

大学に1年間通って得た知識や知恵というのは、せいぜい、文章の意味をそのままに文量を数倍に膨らますテクニックとかの程度です。週イチでそんな文章を大量に書く訓練をさせられたので、もう簡潔かつ自然な文章がすっかり書けなくなってしまいました。この投稿もひどいものになっていると思います。

 

大学はどういうところか、ということを知った事自体は良い経験だと思います。世界を知るということは、可能性を知るということだと思います。実際にはそんな可能性なんていう薄いところすらないのかもしれませんが、僕はあると思っているし、それは単純にあってほしいという希望そのものでもあります。

 

ちなみに、可能性を信じて一口買った特別開催のtotoBIGは外れました。

今度の可能性チャレンジはTOEICです。当たるといいな。

 

 

去年の振り返りとか

あけましておめでとうございます。

日頃から僕にかまってくれる皆様方におかれましては、今年も何卒よろしくお願い申し上げる次第であります。

 

さて、昨年は色々なことがありました。

まず大きかったのは、高専の卒業でしょうか。あまり過去を懐古し続けるのもどうかと思っていつつも書きたくなってしまう出来事です。

5年間の終わりというのは中々に感慨深いものがあり、去年は年末ではなく年度末に痛々しい締めの記事を書いた記憶があります。ああ恥ずかしい。

学祭や忘年会で会いましたが、みんな新たな環境で元気にやっているようで、とても元気をもらいました。たまにしか会えない、けども気心の知れた関係、というのはとてもとても貴重だと思います。今だから言える冗談なんかもあるしね。

僕のことを友達だと思ってくれている人がいるのかはさておき、僕はみんなのことを友達だと思っているので、今後もこうして定期的に会いたいですね。

 

あと、2月のはじめに祖父が他界しました。

僕には父方母方という概念がないので、たった一人の祖父でした。いわゆる"ものづくり"が好きなのは、今思えば、祖父の影響がとても大きかったように思います。小さいころ、顔がおじいちゃんに似てると近所の人に評判だったのを覚えています。やっぱり血なのでしょう。

元気な頃の祖父は、正義感が強い人でした。そうした姿勢は必ずしも生きやすいわけではないことを実感していますが、僕の中で無意識的に理想像としているところはあるかもしれません。

 

あとは大学の入学ですかね。卒業は一斉にお別れしますが、入学は一気に関係が増えるわけではないので、入学それ自体が一大イベントという気はまるでしないのですが、それでも、思い返せばたくさんの人と知り合うことができました。内部生と交流を断って細々と生きていく覚悟の上で編入したので、とても嬉しいです。大半の人はTwitterのおかげかなと思いますが、女の子にもアカウントがバレてしまったのが唯一にして非常に大きな後悔です。もし大学にもう一度入り直すことがあれば、ほかの人みたいに大学用のアカウントをちゃんと作ろうと思います。

大学生らしくモラトリアム満喫したいなとか、個人的に勉強とか新しい趣味も出来たらいいなあとか、色々ぼんやりと計画を立てていたものの、授業だけでも多忙すぎて、本当に何もできませんでした。あまり勉強になる内容でもなく、ただただ作業的に課題をウケ良さそうに仕上げ続けるだけの機械と化していました。

前々から思い詰めていたこともあり、死んでしまおうかと思うものの勇気がなく泣きながら電車の吊り革に掴まって帰るみたいな時期もありました。まあ、死んでないんでただのクソ情緒不安定なキモオタクなんですけど。

 

オタクといえば、多忙ゆえに今年は全然アニメを見ませんでした。

熱が冷めてしまった、というのもあるのかもしれません。あまり本数を見ていないので、偉そうに「今年はこのアニメが一番良かった!」的な記事を書くこともしませんでした。青春の貴重な時間を捧げて恒例化していたものを断ち切ってしまうと、若さ故の勢いというのは若いうちにしかないものなんだなと実感します。

 

あ、ハタチにもなりました。一昨年には学校のみんなは大体二十歳になっていたので、去年成人を迎えたという感覚があまりないですね。

去年の3月までの5年間、留年した人を結構たくさん見てきたのですが、そういうこともあってか、若さというか体感の年齢というのは、実年齢よりも環境に左右されるなと思ったりします。歳相応の振る舞いをできるようにしたいものです。

 

一昨年のはじめあたりに、自信を持ちたいという旨のことを書いた記憶があります。

今年は、ほんの少しだけ、自信が付くようになってきたような気がしています。まだまだ他の人たちに比べたら相当ネガティブかもしれませんが、ゆっくりにでも大人になっていければ良いなと思います。