ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

卒業 pt.2

大学を卒業しました。昨年度入学したのにもう卒業です。早いものです。早いのは体感としてだけではなく、実際にも短い時間なので当然なのですが…。大学院をDLCと表現するのが好きなのですが、そういう比喩をするなら僕の大学生活は体験版だったと言えるかもしれませんが、導入じゃなくてオチの2年をやる体験版というのもあまり聞いたことがないので、変に比喩をするものではないですね。編入は編入であり、卒業は卒業で、2年間は2年間そのものです。

とはいえども、大学、とりわけ国立大学の工学部という場所がどういうところであるのかを知るには十分な期間であったように思います。高専とは違って本物のアカデミックの世界がありました。同時に、その存在が良いことなのか悪いことなのかは、市場に目を向けなければわからないことだとも思うようになりました。

就職にあたって、様々な人との新たな出会いがありました。僕の人脈は高専とゲームセンターでほぼほぼを占められていて、真面目に専門学校に行った人とか、文系らしく学外活動をしていたとか、そんな人たちとの遭遇は刺激になりました。理系の人とも知り合いましたが、失礼なことを言ってしまうと、アカデミックでない大学というのは大変に多くあるということを具体的に理解しました。大学院生が実績主義なのに対して、理系の学部というのは卒業にしか価値が与えられないものであり、いずれの大学を出るにせよ平等に与えられる価値しか獲得していないことに気がついたとき、編入・就職という選択ははたして適切だったのかという疑問を抱きました。論理的正当性のみが統一的な正義となり得るような社会というのは、案外アカデミックな場にしかないものです。テーブルマナーや芸術教養なんかと同じで、それを持っていない人間に押し付けるということは、そもそも無理なのです。

アカデミックの世界を垣間見ることが出来たという収穫の一方で、技能的な部分や知識的な部分についてはほぼ高専や独学で培ったものを利用するだけの作業であり、特段の収穫はありませんでした。予想はしていましたが、あまりに予想通りすぎて驚きました。

 

大学生としての2年間で一番大事だったなと思うのは、環境の変化があったことです。お金を十分に貯められなかったので下宿ではなく実家からの通学を選びましたが、それでも20歳にして初めての電車通学は、変化のきっかけとして十分に作用してくれました。人のいる場所に行く、お店のある場所に行く、という当たり前の社会的な行動が一大行事と化していた20年間の呪いを、多少は解くことができた気がします。人脈にしろ、能力にしろ、そして幸福にしろ、外出をするというのは重要だなと痛感しました。

 

学内・学外問わず刺激的な出会いがあったというのは、環境の変化による収穫と言えるでしょう。実は、高専でも刺激的な出会いというのはものすごくあって、今でも当時の同級生はだいたい尊敬をしているし、いまの僕は意識的にも無意識的にも彼ら彼女らの強烈な影響を受けて形成されているのですが、大学でもこうした刺激を受けれたというのは非常に嬉しいです。ゲーマーにせよ、いわゆるメイカーの人間にせよ、こいつには一生敵わないなという圧倒的な人間が同級生にいて、心をガシガシと揺さぶられました。

 

中学生までが人格の形成、高専時代が思想の形成を行っていた期間であったならば、大学での2年間は、これらの実践的な検証を行っていた期間だったと言えるでしょう。人格や思想のもと、実生活においてどれだけの効果が得られるか、また、外部からの衝撃に対して耐えうるか。もし耐えられなければ追加や修正を行い、補強していく。人格と思想が、ようやく運用の初期段階に入りました。

 

やはりモラトリアムは人間を豊かにしてくれるんだろうなあという実感が湧いた2年間でした。精神的なモラトリアムが必要だというのは幸・不幸の両面で痛感しました。時間的なモラトリアムは精神的幸福や能力の因子となるものだという実感もようやく湧いてきました。

正直なところ、退屈な時間も人間も非常に多く、とてもテーマパーク帰りのような感動はないのですが、振り返れば、様々な経験やそれに伴う思考をしたことは紛れもない事実で、それらを行える最後の猶予として貴重な時間だったという実感は、日に日に大きくなっていくのだろうと想像できます。だから一生モラトリアムさせてくれないかな、ビックになるからさ、頼むよ。