ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

気配りというマナー

あの人は善い人だ、あるいは、あの人は悪い人だという評価は、社会においてごくごく自然かつ頻繁に行われている。健全な評価であることもあれば、あるいは、意図的に行われている場合もある。

ただ、共通しているのは、それは必ず一側面的な物の見方の表明であるということである。更に言うならば、必ず認識不可能な領域が存在し、それがどれだけ善人の精神を根本としていても、それは決して評価されることはないということである。

何が言いたいのかというと、他者が知覚できる善が限定されているならば、根本の精神に善を置くことは社会的な幸福の追求において無意味であると考えられはしないか、ということである。平易に言うならば、根本に善を存在させるよりも、善い人のフリをしてしまうほうが自分に利益があるのではないかと考えられるという話である。

人は恩を着せるという行為以外で善行を行うことはできず、つまり、恩に着たという認識を他者が得なければならない。すなわち、他者が知覚できないような行動というのは行為功利主義的に見れば意味を成さないということである。認識できないということは、規則にすることが不可能ということであり、それは動機の選択が自由ということである。

 

もはや現代においては、善行すべてがマナーと化しているのではないだろうか。マナーは相手を値踏みするための共通認識であり、同時にコミュニケーションにおいて自己が正当性を失わないための手段にほかならないが、マナー評価的な見方が、あまりにも浸透しすぎてはいないだろうか。それは本当に正しいのだろうか。

日々生きている中で、人生がなんとなくうまく行っていると思うことはないだろうか。神を語るだけのリテラシーは持っていないが、日常で感じる漠然としたそれは、誰かの善意によってもたらされたものではないだろうか。

そしてあなたは、そして私は、善い人だろうか、それとも悪い人だろうか。