ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

流行も知らず、漢字も読めず、法律も思想も歴史も地理も知らず、しかし自身の経験のみに基づいて自身をただ肯定し続けていられる大人をここ数年で沢山見てきた。

 

僕のやっているエンジニアという職業は、ひどくロボット的だと思う。
奴隷としての能力、あるいは幼少期~青年期に得られた無条件的な自己肯定感、それ以外に自身の拠り所が本当に無い。奴隷ならせめて鎖自慢をするほうがまだ文化的じゃないか?

奴隷になるための教育を受け続けた結果ちゃんと奴隷になれた、というのは人生の常識的なレールの一つではあると思うのだが、結果としてそれは自分や世界のことについて考えるための教育を受けられなかったということでもある。

 

教養は自助努力によっていつでも身につけられる、という言説には反対の立場を取りたい。例えば、任意の何かを成すことがいつでも可能だったら能力に莫大な価値が生じることはないだろうし、対象を教養に限定したとしても、もしそうであればアカデミズムの外部への権威性は今ほど強固ではなくなるだろうと思う。

 

じゃあ教育の岐路に立つ14歳や17歳の時に選択を誤ったのかというと、僕個人はきっとそうではないなあと思う。その頃は何かについて考えることにそこまで強い意欲はなかったし、何かを考える能力は今よりもさらに無く、教育に耐えうるだけの要素が一切欠けていた。

 

自身の過去の行為を反省するにあたり、どこから選択をしていて、どこまで選択させられていたかという判断を下すのは難しい問題に感じる。決定論的立場に立つほうが楽なように見えるので、安直にそうしたくなったりする。

 

さらに、そういった問題に向き合うことをせず、奴隷をやるほうがむしろ気楽であるという気持ちになることもある。それはもしかすると、僕はロボットになる方が幸せだということなのかもしれない。

その幸福を拒否することができれば、それは僕の幸福の限界は僕が肯定できない程度の小さなものだということなのだろう。一方でその幸福に浸るのであれば、それは意思を持って生きるという行為に自分が不適格なのだと認めるということでもある。そんな惨めな二択はあるだろうか。

 

ある程度の年齢になっても生き方がまるでわからない、なんて情けないと自分でも思う。情けないで済めばよいが、そもそも生き方などなく死んだほうがよっぽどマシなのに答えを探しているのだとしたら悲劇だ。

 

こういう悩みに一定の折り合いをつけてくれるのが教養の効果の一つだと思うのだが、無教養をめぐる悩みの解決に教養が必要というのは結構痛快だと思う。

教養がないと人は死ぬことも出来ない。