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Twitterを始めてから9年近く経つ。
僕より年上のフォロイーは大半が就職して、年下の各々も人生の輪郭が明確になりつつある。
そして、これはTwitterに限らず、そのまま社会一般にも当てはまるだろう。
SNSは社会に対する覗き窓として機能する側面がある。
いくつかの小さな窓を通して世界を見る行為にこれまでの人生の大半を費やしてきたが、
結局のところ、窓の外の世界は僕にとって残酷であり続けている。
何らかの尺度を置いた時、もちろん自分より優れた人間はいて、劣っている人間もいる。
ただ、絶望はそこにはない。
本当の絶望は、その優劣を決定する因子に自分の手が届かない、という点にある。
社会学では、現代の日本において誰がどの社会階層でどういった社会的活動をするか、ということの因子のひとつに生育環境があるということが明らかにされつつある。
僕はその一連の議論を知った時、途端に社会学に興味がなくなってしまった。
これから世の中がより明確になったとして、その結論がもはや自分を救うことはないからだ。
自殺したことがないので自殺者の気持ちはわからないが(自殺しても他人の気持ちはわからないが)、
仮に、自殺が思考の果てに行われる行為だとすると、それは構造主義的な認識の結果なのだろうな、と思う。
20歳頃までは、自身を取り巻く環境に対して憎しみや恨みのようなものを抱えていたのだが、
今思えばあれは、もしかしたら環境が変わって自身に(遡及的な)救いが訪れるかもしれない、というひどく妄想のような願望だった。
原因を明確にするということは、救済の手段が存在するかを示すということでもある。
今はただ、「生きなければいけないのだ」と無条件に命令する自意識を呪うばかりだが、
この由来が判明した時、僕はきっと何らかの形で呪詛から解放されるのだろう。