読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

コミュ力、あるいは向上能力

東京に来て、早くも半年が経ちました。

 

すこし歩けばお店があり、駅もあり、電車がすぐに来ます。
それはすぐに大都会に行けるということでもあり、孤独のグルメに出てくるような飯屋にも行けるということでもあり、あとは客観的事実から表現するとしたら、パチ屋に駐車場がないということでもあります。

 

とはいえ、東京とはどういうところか、あるいは、どういう生活をするだろうかという以前からの想像と、実際はそれほど変わりありませんでした。結局のところ僕自身はひきこもり体質なので、日常の無駄が減る以外の根本的変化はありませんでした。

利害関係のある人間以外の視線は気にならない方なので、田舎に住んでいたときと同じように寝間着と大差ない適当な姿で出かけています。

 

ただ、一つだけ馴染めないことがあります。それはラジオです。
適当な店で外食をしていると、TOKYO FMが掛かっていることが尋常じゃないくらい多いのです。

世の中にはラジオ愛好家というのが一定数いるものの、僕はそれではありません。
しかしながら、神奈川県出身の僕にとって、ラジオのテンポ感、あるいはノリというのはFMヨコハマが基準になってしまっていて、東京のお店で当たり前のように流れているTOKYO FMが、まるで無音室に閉じ込められたときに聞こえる自身の心臓の鼓動音のようで、じわじわと耐え難いものになっています。

 

情報媒体は新しい情報を入手するためのものなのにも関わらず嫌悪感を抱くのは、一見して矛盾しているようですが、よくよく考えてみると、そもそも僕は情報媒体そのものに未知性を求めていないのではないかと思いました。

自分の予想される形式、あるいは結果に従ってコンテンツが提供される、そういうお約束的なものが好きなだけで、中身そのものに注目できていないのです。

 

ここから言えることは、適応能力とは、情報の本質的部分だけを抽出する能力だということです。

良く言えば表現手法、悪く言えば印象操作的な部分というのをフィルタリングする能力と言い換えることも出来ます。さらに言い換えれば、情報の吸収を抵抗無く行える能力となるわけです。

 

話を一旦、僕のことに戻しましょう。
僕はTOKYO FMという環境に馴染めていないわけですが、この環境というのが人を対象としても、それは環境なので成り立つ可能性があります。

というか、そういうことはよくあります。例えば、僕が風俗へあまり行かないのは、風俗嬢とコミュニケーションが上手く行えないからです。

 

コミュニケーション力を重視した採用を企業がやっている、あるいは大学の入試に利用しているという話はよく聞きます。もちろんコネを使った裏口ルートの用意という側面もあると思いますが、一方で、コミュニケーション力のある人間というのは学習能力も併せ持っていると考えることも出来るわけです。

学歴を見ずに採用したら高学歴ばかりが集まった、という大手メーカーの話があったりなかったりしますが、そういうことが起こりうるという想像がなんとなく出来るようになった感じです。という話でした。