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ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

死ぬときは綺麗に死にたい、という誰でも抱く願望

二冊目はこの本。一冊目からのマジカルバナナ的に選んだ。

大往生 (岩波新書)

大往生 (岩波新書)

 

人はみな死ぬときに孤独である、と僕は思う。もちろん、死ぬ間際に人と触れ合いたいといった気持ちであるとか、人に囲まれて看取られたいとか死後良い評価をされたいとか、そういったものは孤独に完結しているものではない。けれど、自分の人生が真に終了するのだという実感が与えられるのは自分自身のみなのだ。大抵の場合、何かが終了するというのは、観測者自身にとってはある"変化"に過ぎない。仕事のプロジェクトが終了する、ローンの支払いが終了する、他人の人生が終了する。これらはすべて、今の世界が、何かが終了した世界に変化するだけであり、終了するそのもの以外は、新たな世界で生きていくことになるという実感だけが与えられる。しかし、自身の死だけは違うのではないか、と想像している。なぜなら、世界の変化を観測することができないからだ。自分が死ねば当然ながら観測者としての自分は"終了"するのだが、終了は変化であるから、この観測は不可能である。つまり、自分からしてみれば、自分は死なないのだ。

死ぬ直前になると穏やかになるとか、少なくとも取り乱すことはないだとかいった話がよくある。これは、自分が死ぬという実感がそれまで感じてきた無数の"終了"とはまったく異なるから、死という事象の想像が出来ていないだけなのではないかという気がしている。人の死は悲しいことだが、自分の死は自分にとって何ら変化を伴わないと感じるので、すなわちそれ自体には特段の感情を抱かないのだ、というのが僕の仮説である。

 

本の話をしなければならない。でも、僕は本を読む前に本を読む時間と同じくらい著者のことを調べないと気がすまない(し、そうしなければ意味が無いと思っている)タイプなので、まずはそこから。すごい失礼な言い方をしてしまうと、永六輔は典型的な(悪い意味での)"年寄り"だと思っていた。この人は文化について非常に保守的な人である。安保闘争に参加などしたのに、と思ってしまう。伝統文化を守れだの携帯は使わないだのと"老害"感がものすごい。ラジオは好きらしい。4G通信もラジオも一緒じゃねえかと思うわけで、もうよくわからない。

この本の内容は、死というのを身近に考えてみましょうという話である。身近という言葉はよくないかもしれない。とにかく、死というものをしっかり考えてみないと、死ぬときにどうしようもないよね、という趣旨である。養老孟司も、死を非日常とするなということを言っていた気がする。養老孟司と違うのは、これは理屈の本ではないというところだ。信じるも信じないもアナタ次第です、という言葉で〆た関暁夫以上の説得力はないし、それを感じたら負けだと思っている。

ただ、死の予感が明確な人たちの言葉というのは、軽視してはならないと思う。というのも、その人たちにしかない感覚というのが必ずあるからだ。これは、経験則とは異なる。個人の経験則に基づく人生哲学はその大半が単なる認知バイアスであり聞く価値などないが、そういった話ではないのだ。そういう意味で、有名から無名まで、様々な人の言葉が載っているという点で、非常に面白い。

日常生活の中で静かに死ぬ、質素な葬式をやってもらう、そんな"大往生"という特殊な形式が、画一的な夢と化しているのは非常に興味深いことだと思う。そんなことを言っている人で、そのように死ねた人は見たことも聞いたこともないので、病院で鼻やらなんやらに透明の管を差し込まれた非日常の状態で死ぬのがむしろ日常によっぽど近い死のあり方になってしまっているともいえるだろう。にも関わらず達観して、さも当然に実現可能かのように大往生を語るのは、いささか滑稽だと思ってしまう。僕が個人的に想像する僕の死は、少なくともそんなに綺麗なものではない。人に恨まれるようなことは絶対にしないという信条で生きてはいるが、人から愛される予感もしないので、路傍で餓死していることも、無縁塚行きになることも大いにあり得る。

信仰がないと自分の死を納得させることができない、という話が対談の中で行われていた。なるほど確かに、と思った。信仰は、未知の世界に対して迷わず行動する力となってくれるが、これは死に対しても強烈に作用できる可能性がある。僕は宗教の信仰がないが、肉体的に死んだら精神も連動して世界が終わる、というのは単なる信仰にすぎない。脳の機能が停止したところで、そもそも脳に精神があるかはわからない(とはいいつつ、まずあるだろうが)。そういう意味では、未知の事象を考えるときに、何かしらの信仰は必須なのだろう。

 

葬儀というのは自分たちの心理的不安感を解消するために行うのである、といったことを、2年前に祖父が死んでからお世話になっているお坊さんが言っていた。それは悲しみだけでなく、文化や世間体といったものからくる不安の解消でもある。

自分のやや悲観的な思想も、心理的不安の解消という点では根はまったく同じなのかもしれない。結局のところ、何かにすがるしかないのだ。僕はひねくれ者なので、なにかにすがらねばならないとわかってしまうと、何にもすがらず生きてみたくなる。そういった生き方に何が必要なのか、それとも何も必要ないのか、それすらわからないが、目指してみることは結構アリなんじゃないかと思ってしまった。そうやって生き方を貫き通すことが、それぞれの大往生に繋がっていくのではないだろうか。…もちろん、大往生などできはしないことも含めて。