ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

ミソジニー

僕は女性が苦手だ。

この感覚は、強いていうなら恐怖に属するものである。それは、女性個人から理不尽に否定された経験ばかりで対等なコミュニケーションをした時間が他人よりも希薄だったからかもしれないし、女性の形成するホモソーシャルやそこで生まれる文化がいまいち理解できなかったからかもしれない。

理由は漠然としていて掴みどころがないが、とにかく、女性と話すときは身構えてしまうし、汗も病的な量が出る。たぶん、頭も回ってない。

 

女嫌いのことを"ミソジニー"と呼ぶのだという知識をどこからか得た僕は、検索で引っかかった上野千鶴子氏の本とかを読んでみた。今回はこの本の感想とか書こうと思う。

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上野氏といえば有名な社会学者で、とくに、日本の女性学史においては永遠に語り継がれるであろう人である。フェミ系のジェンダー学ならまずこの人の名前が出てくる。

 

人気な本で、要約文みたいなレビューもそこら辺に沢山転がっているので、諸々を端折って結論から書くと、これは言葉の乗っ取りだと思ってしまった。

 

上野氏の語るミソジニーは、単に女性への恐怖や嫌悪という話ではない。それどころか、僕は真逆だとすら感じた。

大多数の男性が女性を一種のモノのようにみなし対等な関係を拒む様と、その背後にある男性ホモソーシャル内における承認条件としての女性所有、そしてさらには、男性から欲望される側の存在に"させられた"女性が性的主体になれないこと、これらを総称してミソジニーと上野氏は呼ぶ。

これは、「男性社会によって定義された性的主体/客体のあり方を肯定するか」という問いにYESかNOかという話である。ただし、これにはジェンダー対称性があり、男性は根付いたミソジニーゆえにYESと言い、一方でミソジニーをもつ女性はNOと言う。結局のところ、男女に共通するお話のように言ってはいるが、問が同じというだけだ。男女のミソジニーの性質は、その性的関係性のあり方のように、真逆なのである。

ただ、共通する点はある。それは、この問に対してNOを突きつけた人間は、社会のはみ出し者として扱われるという点である。

 

男性ホモソーシャルにおける男同士の承認のために女性関係が利用されてきて、男の価値尺度をそのまま女性に利用させたという旨の話は、おおよそ真実である。しかし、少なくとも現代では、必ずしもそうではないようにも思える。

ここでいう尺度とは、金銭的余裕や容姿を指す。男性が自身より劣った女性をパートナーに好むという指摘があったが、その時に利用されるのが、これらの価値であるという。そして、価値で劣ると、ミソジニーを持つ男性は不服なのであるらしい。よって、女性はこの尺度を受け入れるしかない、という展開がされている。

 

本当にそうだろうか、と思わざるをえない。

容姿はともかくとして、金銭的余裕、というのは、単にその人の人間性の価値に限らない。女性に金銭的支援し、それほどぼくはきみを愛しているんだ/わたしはあなたに愛されているのね、と思う/思わせるような(一部の男性が作り出し、いまではすっかり多数の女性に利用されている)恋愛テクニックが存在する。

僕はこの理屈が大嫌いだ。理由は簡単で、それは愛ではなくて、自由経済社会で他人から得た利益なだけだからだ。さらに言い換えてしまえば、お金を頂けさえすれば、その提供者は神でも仏でもいいし、何もない空間でもよい。いわゆる愛情はあくまで感情の変化以上の効果を生まないが、経済のある場所では、それはこれ以上なく普遍的な価値であり、また、それは決して個人の恋愛感情に還元されるものではないように思う。

 

「女はカネについてくる」と堀江貴文は言ったが、この行為は、自身の価値を高めるために行っているようにしか思えない。本ではこれを男の用意した価値尺度に従わされているだけだというように解釈していたが、そうではなく、「愛情(の表現)を得るために金銭を払う男」と「愛情(の表現)を提供し金銭を受け取る女」という、ひどくドライかつ単純な経済的関係に思えてならない。最近流行りの「女は容姿を整えるのに大変お金がかかっている、だから奢ってもらうくらいは当然」というロジックは、これ以上ない証明となるだろう。

……まあ、根本が男のせいか女のせいかっていうアホらしい歴史認識の問題にしたいのであれば、今の資本主義社会も男が作ったものだろうと言われれば何も言えないのだが。

 

ジェンダー論ではフロイト先生のお話が未だに現役である。トンデモなオカルトネタでも独立であれば決定不能命題となるよい例である。が、僕も下ネタは好きなので、少し語りたい。

僕はしばしば、「精子を飲めてこそ愛」と表現することがある。

これは女性に奉仕しろと言っているのではない。僕自身の主観的な経験からそう言うのである。その人間を愛していればその人間の全てを肯定できるはず(というか、出来てこその愛)だからだ。自身がサディストだとかマゾヒストだとかに関わらずだ。性的主体にも性的客体にもなることが可能であるという関係こそが対等であるし、それが愛であると思っている。

 

……そう思ってはいるが、実際にはそうではない。だから、「それが愛であってほしいと願っている」くらいが正確である。

ここまで来てしまうといよいよ疑いがないのが、僕がこの本で指摘された男性ホモソーシャルの社会にまったく馴染めていないことである。フェミニズム的視点で見ればこれは喜ばしいことで、それはミソジニーを持っていないからだ。ただ、僕自身がいかに人生を幸福に終えるかという点でみれば、これは最も悲しむべきことのひとつである。

社会が成立してしまっている以上、その社会の価値尺度で認められない人間は概して幸せになれない。本の中でも「ブス」が女性のホモソーシャルで女性として扱われず、実はそれは男性ホモソーシャルの価値尺度で否定されていることとまったく同一の事象であるということが指摘されていた。価値の無い人間や、それに従うことを拒む人間は、共同体での承認が得られない。

僕はあまり愛情を得られずこの年齢まで来てしまったので、人並み以上に他人からの承認が欲しいし、人並みに恋愛感情も抱く。だが、ホモソーシャルの承認が得られない以上、男性だけでなく、男性社会に尺度によって相互に価値付けされる/することを認めている(認めさせられている)女性たちからもまた、承認は得られないのである。

この社会に適応できない男性のように、この社会に適応できない女性もまた、幸せは遠いものとなる。男性に構築された社会に対して、経済的利益という追認を無意識的に与えながら適応していくほうが、まだ幸せになれるのである。結局のところ、男性ホモソーシャルによって構築された世界に適応できる権利を与えられた女性であれば、たとえそれがミソジニーを持つ女性であっても、いちいち非ミソジニスト男性に構っているより、ミソジニスト男性を主体性を自覚しながら利用してしまったほうが明らかに"得"なのだ。

 

この本では、息子は父が母を支配する様子を見て父に同一化し母のような女性を求め、一方で娘はその逆だという、ミソジニーの再生産が指摘されている。

僕には物心ついた時すでに父がいなかったので、幸か不幸か、こうした再生産のサイクルから脱出したようである。社会の再生産のサイクルに乗れないというのはつまり"非常識"であるということであり、追い出されてしまった、と言うのが近いのかもしれない。子供には全く顔も姿も覚えられておらず、それでも毎月の養育費を払い続けている様子はむしろ、女性の支配だけを強く印象付ける。

 

僕の女性に対する嫌悪は支配に対する恐怖だと思うのだが、上野氏にうまいこと言葉を取られてしまったので、ふさわしい言葉を知りたい、というお話。