ぼっとんべんじょ

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幸せって、平等なの?

みなさんは、今、幸せですか。

 

主観的な幸せについて、次のようなロジックがあります。ある出来事が幸か不幸かを決めるのは自分だから幸も不幸も自分の気の持ちよう次第でどうとでも変わる、というものです。

また、この考え方に関連して、幸せは平等に訪れる、というちょっぴり宗教じみた言説を聞いたことがある人も結構多いのではないでしょうか。

 

ポジティブさこそ幸せの源だ、と考えつつもいつもネガティブな方にばかり思考の傾く僕はこういったプラス思考の理論をなんとか取り入れようと心がけているので、すっかり納得しかけていたのですが、よくよく考えてみれば、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だなと気がつきました。

 

事象そのものは平等で個々人の幸/不幸ボーターによって幸か不幸が決定される」という平等モデルについて、真っ向から反論したいと思います。

 

単純な思考実験によって反証が出来るのではないか、と考えました。それは、「自分がある他人と、思考以外の全てが入れ替わることになった時、どう感じるか」を考えるというものです。もし平等論を説くならば「そんなことができるなんてラッキーだ!」と思ってもいけませんし、「あんな人間とは入れ替わりたくはない」と思ってもいけません。同じだけの事象が得られるはずですから、思考さえ自分のままであれば入れ替わっても問題がない、というのが平等モデルのスタンスであるはずです。このとき、入れ替わりに対して何らかの損得を計算できてしまうならば、それはなにより平等ではないことの証明になります。

 

もちろん、同一の事象に対して個々人の捉え方が違うのは否定しません。しかし、それぞれの考えを持つに至った経緯に、平等性があったと言えるでしょうか。人の脳のはたらきが、それまでの体験によって大きく異なってくるということは、すでに常識となっています。その体験は平等に与えられたものでしょうか。違うと言ってよいでしょう。

 

私の持論を言ってしまうと、幸福な人ほどどんどん幸福になり、不幸な人ほどどんどん不幸になる、と思っています。

ネガティブな傾向の人にはネガティブな事象が、ポジティブな傾向の人にはポジティブな事象が降りかかる、という話を私は否定しません。鶏が先か卵が先かという議論にはなりますが、ネガティブな傾向の人にはネガティブになるべくしてなった理由があり、それならば、ネガティブな傾向そのものではなく、その理由について現在の結果と因果関係がある、ということ自体は肯定すべきものだと思うからです。

不幸な人は、心理学的な説明で言えば、欲求階層の上層にたどり着くことは永遠にない、と考えています。それは、環境的な問題によって、すでに現在の階層の欲求を満たす方法を失っているからです。逆に、幸せな人は、上位欲求を満たすための土台に立てているわけですから、あとは一段一段登っていくだけです。

 

つまるところ、レールに乗れているか、既に脱線しているのか、という話なんだと思っています。こぼれてしまった人達は、もうあがいても無理です。せいぜい、レールの上の人達を無理やり引きずり下ろすことを試みるくらいしか出来ません。

同時に、自分がレールの上にいるのかどうかは、結果論でしか確定しません。だから、最終的に自分がどちら側の人間であったとしても、今どれだけ自分の居場所がはっきりと見えてきていても、レールの上にいると信じて行動するしかないのです。

 

そう考えれば、人生はただのギャンブルです。自分がどこにいるかがどれだけ見えてきているかで、期待値がどんどん定まってきます。

あなたの期待値は、プラスですか?