ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

夏休みをしています。

 

先週の今頃は働いていた、という事実がウソのような感覚です。まるで、生まれたときからずっとダラダラしていた気がしますし、今後も一生ダラダラし続けられる気がしていて、活力に満ちています。

報酬系によって強烈にバイアスが働くのはバカの特徴だと思うのですが、そういう意味では夏休みはバカのための休みという側面が非常に大きいのではないでしょうか。

 

夏休みに会った元同級生がボーナス100万×年2回だと言っていましたが、あれを普段の平日昼間に聞いていたらと思うとゾッとします。人間簡単には死ねないので、おそらく内臓の不調などになるのだと思います。肉体が生に執着するのもバカっぽいなと思うのですが。

 

というか、そんだけ金あったら僕にベーシックインカムできるな、と考えたのは言うまでもなくなのですが、実際のところ月8万円貰えたら普通に楽しい生活が出来ると思うのです。

貧困層中流階級以上の人間を殴って勝手にベーシックインカムをやるみたいな文化が成立する前に、行政がさっさと始めてしまうべきだと思います。

 

ベーシックインカムをやったらお前みたいな人間が働かなくなるからダメだと言われたことがあります。

まあ僕は働かないのですが、僕が働かなかったところで、別に社会の生産能力がガタっと落ちるわけでもないので、別にいいんじゃないでしょうか。

 

供給が減れば単価が上がるので、労働リソースを使った生産活動は確実に難しくなると思いますが、そんなのは人を動かすという行為に技能性を感じている人以外はやりたくないと思うので、まあ、その技能を磨いて人を集めて下さいという感じです。

 

別に労働という形でなくても、幾らでも生産は行われるし、フリーミアムのすごいところは無料のものは貨幣価値が変わってもいつまでも無料というところにあると思うので、財を消費しないと楽しめないというタイプの人以外はまあまあ楽しめるんじゃないでしょうか。

 

まあ、人を集めて働かせる人たちというのは社会的に声が大きくなるので、その人達のおかげのみで、ベーシックインカムは一生成立しないと思っています。

 

閑話休題します。最近のオタクは閑話休題しなくなったのですが、僕はします。

 

社畜らしく技術書などを読んだりモノを作ったりなどしているのですが、やはり自分は勉強がびっくりするくらい苦手なのだなということを再認識する以外にあまり学びがありません。

ちなみに僕はアーケードゲームくらいのサイクルで承認のタイミングが訪れないと終わる性格なので、ソシャゲすらかなり苦手です。

ゲーム脳ってやっぱりあるんじゃないでしょうか。単純作業で脳が退化するみたいな話は完全にライン工の皆さんを敵にしていると思うのですが、そういうのではなくて、成果が出ないとすぐだるくなるのはゲームのせいだと想像する気持ちがあります。世の中は気持ちなので、気持ちが大事です。

 

そろそろソフトウェアエンジニアの間でも気持ち駆動開発みたいなのが流行るのではないでしょうか。まあ実質的に単一の気持ち源によって全てが決定されるみたいな現場はいっぱいあると思うので、もう流行っていると言ってもよいです。

 

エンジニアが体を鍛えて健常者なりきりを始めるのもう見飽きたのですが、言葉はあまり健常者っぽくならないので、もっと精神と感情に動かされてみてほしいです。

理性的であることと倫理を知っているかどうかはかなり無関係なので、そうして終わっていき、反動として一生倫理の話しかしない世界ができあがる、というのがすべての最短パスなのかなと思いました。

あの頃は毎日何かを考えながら生きていた、ような気がする

最近、ブログの記事を書かなくなりました。

ブログを書かなくなったのは決して飽きたからではありません。いや、実際にはこの感覚、あるいは状態こそが「飽き」なのかもしれないのですが、少なくとも僕は飽きていないという自意識があります。

 

言葉というものの存在は不思議だなあ、なんていう誰しも一度は考える漠然とした疑問を、僕も考えることが時々あります。

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「オタク」という呪い

オタクという言葉が出来てから、もうすぐ半世紀ほどが経つそうです。
僕が生まれていない時代の実際は知る由もありませんが、今の時代においてもなおオタクは存在し続けています。

 

言葉の意味そのものは恐らくほとんど変化していないのでしょうが、その指すものを内側から見たときに、その性質は変化し続けているように感じます。

 

古きオタクたちは、設定資料集を買い、エロゲーを買い、同人誌を買い、雑誌投稿やテキストサイトを経ながら同人誌を書き始め、オタクとしての幸福を得ました。
しかしながら、現代のオタクにおいては、これら行為の実践は一定以上の特殊さを持つものと捉えられています。
これは、単にオタクの趣味趣向が変遷したというだけでなく、古きオタクたちの行為そのものは幸福の必須要件ではなかったということでもあります。

 

では、古きオタクたちが何に心を動かされ続けたのか、という疑問が発生します。その答えは現代のオタクと比較することで見えてきます。

 

現代のオタクは、コンテンツに対して独自の楽しみ方を発見しません。
実況動画やコピペ・構文などの大きな流行が存在し、これにより決定された画一的な捉え方を楽しいと感じるのが、イマドキのオタクの在り方です。

 

今と昔を比較してみると、コンテンツに対する自主性というものが大きく異なっていることがわかります。
設定資料集や同人誌といったものは、コンテンツをより深く理解し、そしてより多く楽しむために購入されますが、受け取る側の想像力がなければ、基本的には成立しないものです。
内容自体はいたって真面目な作品であり、読んで楽しさを覚えるのは、同時に自身の思考が活性化しているからに他なりません。

 

今のオタクは考えない人間たちなのか?というと、まあそうだなあ、と思います。
ただ、古きオタクたちが考える人間だったのか?と問われれば、実はそうではなく、考える人間こそが最も誇り高きオタクであるという幻想を目指し続けたワナビーだったのではないか、という気がします。

 

考察という行為や、その結果を発信する行為というのは古きオタクを象徴する最たるものですが、2000年頃*1には内容の無いテキストサイトが乱立していたり、CGI掲示板で深い議論が行われることは稀だったという状況を考えれば、自身の承認願望が考察そのものに先立っていて、何が真に求めていたものかわかります。

 

今も昔も目的を変えて生き残っている行為として、蒐集があります。
古きオタクの場合、物自体の魅力が先にあるのではなく、自身が対象に対して愛を持っているのだ、というアイデンティティに整合することで自尊感情を高めるために行われています。

 

このように、時代ごとの画一的な像に向かっていくという点では、今も昔もさほど変わらないのです。

 

ただ、幻想に向かい終わりなき歩みを続けることと、目先に差し出されるコンテンツを代わる代わる追いかけ続けることには、圧倒的な差が存在します。一方は事実で、もう一方はあくまで幻想なのです。

 

誰が認めるのか?何をもって認めるのか?そしてなにより、仮に認められたとして、それは幸福なのか?そんなことは誰にもわからないのです。こんなものを追い求めるのは、もはや呪いと言ってよいのではないでしょうか。

 

自身の理想とするオタクに近づくための修行的行為を続けることで、自身がオタクであると初めて認めることが出来るという、いわば「オタク道」的な旧来の精神は、手軽さにコストを掛けることで生まれたコンテンツにこのまま駆逐されていくことでしょう。

それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは、結果論で語るほかないものだと思います。世の中が意図的にその方向に進んでいるということは、少なくとも誰かにとって良いことだからなのでしょう。

 

でも、古きオタクによって生み出されたものもあれば、現代のオタクたちを作ったのも巡り巡れば古きオタクであり、そして、古きオタクが目指したものこそが、オタクがオタク自身の喜びを創造出来るようになるための唯一無二の形だと信じたいのです。

呪いの掛かった、何者にもなれないオタクの生き残りとして。

*1:テキストサイトを中心にインターネット上でのまとめコンテンツが流行りだした頃で、古きオタクが主流だった最期の時期と勝手に位置づけている

モテたければ、理系男子になるべきである

理系男性に対する「真面目、冷静、知的で論理的」という見方が、流行から共通認識へと変化してきました。
さらにこの要素に加え、極めて希薄な恋愛経験という現実性を付与したテレビドラマ『逃げ恥』がヒットし、理系男性のイメージは定着したという感があります。

 

残念ながら実際の理系の人の多くは、見当ハズレな発言をしょっちゅうします。全力の自信を持って。
これは一流と評価される大学の学生や、出身者、教授でも同じことです。ほぼ全員が、飲み屋でガバガバ理論を説いて悦に入るオッサンになっています。

実際のところ「論理に対して厳密性を求めている」という自信のみが存在し、一方で事実としては論理が追いついていないのです。

 

これは、自分の知らないことに対して無自覚に勝手な仮定を置いて思考しているからですが、さらに問題なのは、勝手な仮定をしているせいで、自分の知識の無さを自身が確認できなくなっているところです。

さらに悲しいことに、人間相手でも同じような過ちを犯した結果、ありがちな理系男子失敗ネタをみんなで踏んでいきます。大概の理系は自分の脳味噌に価値が存在していると考えており、失敗もまた誇れる思考の結果なので、反省はあまりしません。

当然ながら、彼らは真面目でも冷静でもありません。おおよその場合それしか知らないだけです。理系がキレると変な感じになることが多いのは、単純に普段から感情表現を怠っているからにすぎません。

 

つまり、理系は一般の社会生活、さらには親密な関係下での生活において、知的でも論理的でもなくなるということです。

考えなければ人ではないという言説を信仰する人はとても多いですが、おもむろに対偶を取ってみると、たしかに考えるだけならば人であればだいたい可能そうな気がします。

飲み屋で思想を語るオッサンも考えていますし、あとはヤンキーとかもああ見えて色々考えています。もちろん、思考の質的な差は当然ありますが……。

 

大半の理系の外見は知的な雰囲気からは程遠く、人格的な性質すらも変わっているとなれば、いわゆる"理系男子"のイメージは、現実の理系男性をまったく指していないということになります。

つまり"理系男子"は、現実を基準にして発生したものではなく、純粋な理想像です。現実からの引力をほぼ受けていない概念なので、これを目指せばニーズと完璧に一致し、激モテとなります。

モテるということは、概念になるということです。みなさんも概念を目指していきましょう。

コミュ力、あるいは向上能力

東京に来て、早くも半年が経ちました。

 

すこし歩けばお店があり、駅もあり、電車がすぐに来ます。
それはすぐに大都会に行けるということでもあり、孤独のグルメに出てくるような飯屋にも行けるということでもあり、あとは客観的事実から表現するとしたら、パチ屋に駐車場がないということでもあります。

 

とはいえ、東京とはどういうところか、あるいは、どういう生活をするだろうかという以前からの想像と、実際はそれほど変わりありませんでした。結局のところ僕自身はひきこもり体質なので、日常の無駄が減る以外の根本的変化はありませんでした。

利害関係のある人間以外の視線は気にならない方なので、田舎に住んでいたときと同じように寝間着と大差ない適当な姿で出かけています。

 

ただ、一つだけ馴染めないことがあります。それはラジオです。
適当な店で外食をしていると、TOKYO FMが掛かっていることが尋常じゃないくらい多いのです。

世の中にはラジオ愛好家というのが一定数いるものの、僕はそれではありません。
しかしながら、神奈川県出身の僕にとって、ラジオのテンポ感、あるいはノリというのはFMヨコハマが基準になってしまっていて、東京のお店で当たり前のように流れているTOKYO FMが、まるで無音室に閉じ込められたときに聞こえる自身の心臓の鼓動音のようで、じわじわと耐え難いものになっています。

 

情報媒体は新しい情報を入手するためのものなのにも関わらず嫌悪感を抱くのは、一見して矛盾しているようですが、よくよく考えてみると、そもそも僕は情報媒体そのものに未知性を求めていないのではないかと思いました。

自分の予想される形式、あるいは結果に従ってコンテンツが提供される、そういうお約束的なものが好きなだけで、中身そのものに注目できていないのです。

 

ここから言えることは、適応能力とは、情報の本質的部分だけを抽出する能力だということです。

良く言えば表現手法、悪く言えば印象操作的な部分というのをフィルタリングする能力と言い換えることも出来ます。さらに言い換えれば、情報の吸収を抵抗無く行える能力となるわけです。

 

話を一旦、僕のことに戻しましょう。
僕はTOKYO FMという環境に馴染めていないわけですが、この環境というのが人を対象としても、それは環境なので成り立つ可能性があります。

というか、そういうことはよくあります。例えば、僕が風俗へあまり行かないのは、風俗嬢とコミュニケーションが上手く行えないからです。

 

コミュニケーション力を重視した採用を企業がやっている、あるいは大学の入試に利用しているという話はよく聞きます。もちろんコネを使った裏口ルートの用意という側面もあると思いますが、一方で、コミュニケーション力のある人間というのは学習能力も併せ持っていると考えることも出来るわけです。

学歴を見ずに採用したら高学歴ばかりが集まった、という大手メーカーの話があったりなかったりしますが、そういうことが起こりうるという想像がなんとなく出来るようになった感じです。という話でした。

女性的な生き方

現代の日本の都市社会において交際とは、女性が若き肉体を提供し男性が経済的見返りを提供することである、という事実は最早常識になっています。これは古来からのものであり、男性が肉体の武力を持っていても提供の方法がなくなったため、これが貨幣経済の尺度に変わったということです。

 

僕は、女性的な生き方をしたいと思っています。それは女性が肉体の価値という生来備わっているものを提供しており、それは予め資産を持っている者が運用を行っているということに他ならないからです。つまり僕は、相続したマンションの家賃収入の如く換金行為を行いたいというわけです。

この行為を女性は何かと誤魔化し字面上の昇華を図りますが、実際のところ、これは自身の持つ特殊的な価値を自身の利用することのできる普遍的価値へと変換しているに過ぎません。なのでマイナスイメージを避けたい女性は心配しなくても良いと思いますし、一方でさらなるブランディングの側面もあり、男性は惑わされると損をするということになります。

 

繰り返しになりますが、女性的行為の本質は、自身の価値を、自身が消費可能な財へと変換することなのです。これはつまり、一種の労働です。あまり認めたくないかもしれませんが、現代の交際関係は労働として成立をしている場合が多くあるのです。

すなわち、僕が女性的な生き方をしたいと考えたとき、実行すべきは労働になります。価値の向上としてのスキルや人脈の獲得は、いわゆる女子力の向上に相当するといえます。

 

我々男性が女性のように資産を運用するには、自身の持つ先天的価値を早急に発見、もしくは創造しなければなりません。一度付けられた遅れは、取り戻さなければ勝利できません。自身の人生をより幸福なものにするために、自分たちに備わっているものは何なのかを考える時が来ているのではないでしょうか。