ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

あの頃は毎日何かを考えながら生きていた、ような気がする

最近、ブログの記事を書かなくなりました。

ブログを書かなくなったのは決して飽きたからではありません。いや、実際にはこの感覚、あるいは状態こそが「飽き」なのかもしれないのですが、少なくとも僕は飽きていないという自意識があります。

 

言葉というものの存在は不思議だなあ、なんていう誰しも一度は考える漠然とした疑問を、僕も考えることが時々あります。

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「オタク」という呪い

オタクという言葉が出来てから、もうすぐ半世紀ほどが経つそうです。
僕が生まれていない時代の実際は知る由もありませんが、今の時代においてもなおオタクは存在し続けています。

 

言葉の意味そのものは恐らくほとんど変化していないのでしょうが、その指すものを内側から見たときに、その性質は変化し続けているように感じます。

 

古きオタクたちは、設定資料集を買い、エロゲーを買い、同人誌を買い、雑誌投稿やテキストサイトを経ながら同人誌を書き始め、オタクとしての幸福を得ました。
しかしながら、現代のオタクにおいては、これら行為の実践は一定以上の特殊さを持つものと捉えられています。
これは、単にオタクの趣味趣向が変遷したというだけでなく、古きオタクたちの行為そのものは幸福の必須要件ではなかったということでもあります。

 

では、古きオタクたちが何に心を動かされ続けたのか、という疑問が発生します。その答えは現代のオタクと比較することで見えてきます。

 

現代のオタクは、コンテンツに対して独自の楽しみ方を発見しません。
実況動画やコピペ・構文などの大きな流行が存在し、これにより決定された画一的な捉え方を楽しいと感じるのが、イマドキのオタクの在り方です。

 

今と昔を比較してみると、コンテンツに対する自主性というものが大きく異なっていることがわかります。
設定資料集や同人誌といったものは、コンテンツをより深く理解し、そしてより多く楽しむために購入されますが、受け取る側の想像力がなければ、基本的には成立しないものです。
内容自体はいたって真面目な作品であり、読んで楽しさを覚えるのは、同時に自身の思考が活性化しているからに他なりません。

 

今のオタクは考えない人間たちなのか?というと、まあそうだなあ、と思います。
ただ、古きオタクたちが考える人間だったのか?と問われれば、実はそうではなく、考える人間こそが最も誇り高きオタクであるという幻想を目指し続けたワナビーだったのではないか、という気がします。

 

考察という行為や、その結果を発信する行為というのは古きオタクを象徴する最たるものですが、2000年頃*1には内容の無いテキストサイトが乱立していたり、CGI掲示板で深い議論が行われることは稀だったという状況を考えれば、自身の承認願望が考察そのものに先立っていて、何が真に求めていたものかわかります。

 

今も昔も目的を変えて生き残っている行為として、蒐集があります。
古きオタクの場合、物自体の魅力が先にあるのではなく、自身が対象に対して愛を持っているのだ、というアイデンティティに整合することで自尊感情を高めるために行われています。

 

このように、時代ごとの画一的な像に向かっていくという点では、今も昔もさほど変わらないのです。

 

ただ、幻想に向かい終わりなき歩みを続けることと、目先に差し出されるコンテンツを代わる代わる追いかけ続けることには、圧倒的な差が存在します。一方は事実で、もう一方はあくまで幻想なのです。

 

誰が認めるのか?何をもって認めるのか?そしてなにより、仮に認められたとして、それは幸福なのか?そんなことは誰にもわからないのです。こんなものを追い求めるのは、もはや呪いと言ってよいのではないでしょうか。

 

自身の理想とするオタクに近づくための修行的行為を続けることで、自身がオタクであると初めて認めることが出来るという、いわば「オタク道」的な旧来の精神は、手軽さにコストを掛けることで生まれたコンテンツにこのまま駆逐されていくことでしょう。

それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは、結果論で語るほかないものだと思います。世の中が意図的にその方向に進んでいるということは、少なくとも誰かにとって良いことだからなのでしょう。

 

でも、古きオタクによって生み出されたものもあれば、現代のオタクたちを作ったのも巡り巡れば古きオタクであり、そして、古きオタクが目指したものこそが、オタクがオタク自身の喜びを創造出来るようになるための唯一無二の形だと信じたいのです。

呪いの掛かった、何者にもなれないオタクの生き残りとして。

*1:テキストサイトを中心にインターネット上でのまとめコンテンツが流行りだした頃で、古きオタクが主流だった最期の時期と勝手に位置づけている

モテたければ、理系男子になるべきである

理系男性に対する「真面目、冷静、知的で論理的」という見方が、流行から共通認識へと変化してきました。
さらにこの要素に加え、極めて希薄な恋愛経験という現実性を付与したテレビドラマ『逃げ恥』がヒットし、理系男性のイメージは定着したという感があります。

 

残念ながら実際の理系の人の多くは、見当ハズレな発言をしょっちゅうします。全力の自信を持って。
これは一流と評価される大学の学生や、出身者、教授でも同じことです。ほぼ全員が、飲み屋でガバガバ理論を説いて悦に入るオッサンになっています。

実際のところ「論理に対して厳密性を求めている」という自信のみが存在し、一方で事実としては論理が追いついていないのです。

 

これは、自分の知らないことに対して無自覚に勝手な仮定を置いて思考しているからですが、さらに問題なのは、勝手な仮定をしているせいで、自分の知識の無さを自身が確認できなくなっているところです。

さらに悲しいことに、人間相手でも同じような過ちを犯した結果、ありがちな理系男子失敗ネタをみんなで踏んでいきます。大概の理系は自分の脳味噌に価値が存在していると考えており、失敗もまた誇れる思考の結果なので、反省はあまりしません。

当然ながら、彼らは真面目でも冷静でもありません。おおよその場合それしか知らないだけです。理系がキレると変な感じになることが多いのは、単純に普段から感情表現を怠っているからにすぎません。

 

つまり、理系は一般の社会生活、さらには親密な関係下での生活において、知的でも論理的でもなくなるということです。

考えなければ人ではないという言説を信仰する人はとても多いですが、おもむろに対偶を取ってみると、たしかに考えるだけならば人であればだいたい可能そうな気がします。

飲み屋で思想を語るオッサンも考えていますし、あとはヤンキーとかもああ見えて色々考えています。もちろん、思考の質的な差は当然ありますが……。

 

大半の理系の外見は知的な雰囲気からは程遠く、人格的な性質すらも変わっているとなれば、いわゆる"理系男子"のイメージは、現実の理系男性をまったく指していないということになります。

つまり"理系男子"は、現実を基準にして発生したものではなく、純粋な理想像です。現実からの引力をほぼ受けていない概念なので、これを目指せばニーズと完璧に一致し、激モテとなります。

モテるということは、概念になるということです。みなさんも概念を目指していきましょう。

コミュ力、あるいは向上能力

東京に来て、早くも半年が経ちました。

 

すこし歩けばお店があり、駅もあり、電車がすぐに来ます。
それはすぐに大都会に行けるということでもあり、孤独のグルメに出てくるような飯屋にも行けるということでもあり、あとは客観的事実から表現するとしたら、パチ屋に駐車場がないということでもあります。

 

とはいえ、東京とはどういうところか、あるいは、どういう生活をするだろうかという以前からの想像と、実際はそれほど変わりありませんでした。結局のところ僕自身はひきこもり体質なので、日常の無駄が減る以外の根本的変化はありませんでした。

利害関係のある人間以外の視線は気にならない方なので、田舎に住んでいたときと同じように寝間着と大差ない適当な姿で出かけています。

 

ただ、一つだけ馴染めないことがあります。それはラジオです。
適当な店で外食をしていると、TOKYO FMが掛かっていることが尋常じゃないくらい多いのです。

世の中にはラジオ愛好家というのが一定数いるものの、僕はそれではありません。
しかしながら、神奈川県出身の僕にとって、ラジオのテンポ感、あるいはノリというのはFMヨコハマが基準になってしまっていて、東京のお店で当たり前のように流れているTOKYO FMが、まるで無音室に閉じ込められたときに聞こえる自身の心臓の鼓動音のようで、じわじわと耐え難いものになっています。

 

情報媒体は新しい情報を入手するためのものなのにも関わらず嫌悪感を抱くのは、一見して矛盾しているようですが、よくよく考えてみると、そもそも僕は情報媒体そのものに未知性を求めていないのではないかと思いました。

自分の予想される形式、あるいは結果に従ってコンテンツが提供される、そういうお約束的なものが好きなだけで、中身そのものに注目できていないのです。

 

ここから言えることは、適応能力とは、情報の本質的部分だけを抽出する能力だということです。

良く言えば表現手法、悪く言えば印象操作的な部分というのをフィルタリングする能力と言い換えることも出来ます。さらに言い換えれば、情報の吸収を抵抗無く行える能力となるわけです。

 

話を一旦、僕のことに戻しましょう。
僕はTOKYO FMという環境に馴染めていないわけですが、この環境というのが人を対象としても、それは環境なので成り立つ可能性があります。

というか、そういうことはよくあります。例えば、僕が風俗へあまり行かないのは、風俗嬢とコミュニケーションが上手く行えないからです。

 

コミュニケーション力を重視した採用を企業がやっている、あるいは大学の入試に利用しているという話はよく聞きます。もちろんコネを使った裏口ルートの用意という側面もあると思いますが、一方で、コミュニケーション力のある人間というのは学習能力も併せ持っていると考えることも出来るわけです。

学歴を見ずに採用したら高学歴ばかりが集まった、という大手メーカーの話があったりなかったりしますが、そういうことが起こりうるという想像がなんとなく出来るようになった感じです。という話でした。

女性的な生き方

現代の日本の都市社会において交際とは、女性が若き肉体を提供し男性が経済的見返りを提供することである、という事実は最早常識になっています。これは古来からのものであり、男性が肉体の武力を持っていても提供の方法がなくなったため、これが貨幣経済の尺度に変わったということです。

 

僕は、女性的な生き方をしたいと思っています。それは女性が肉体の価値という生来備わっているものを提供しており、それは予め資産を持っている者が運用を行っているということに他ならないからです。つまり僕は、相続したマンションの家賃収入の如く換金行為を行いたいというわけです。

この行為を女性は何かと誤魔化し字面上の昇華を図りますが、実際のところ、これは自身の持つ特殊的な価値を自身の利用することのできる普遍的価値へと変換しているに過ぎません。なのでマイナスイメージを避けたい女性は心配しなくても良いと思いますし、一方でさらなるブランディングの側面もあり、男性は惑わされると損をするということになります。

 

繰り返しになりますが、女性的行為の本質は、自身の価値を、自身が消費可能な財へと変換することなのです。これはつまり、一種の労働です。あまり認めたくないかもしれませんが、現代の交際関係は労働として成立をしている場合が多くあるのです。

すなわち、僕が女性的な生き方をしたいと考えたとき、実行すべきは労働になります。価値の向上としてのスキルや人脈の獲得は、いわゆる女子力の向上に相当するといえます。

 

我々男性が女性のように資産を運用するには、自身の持つ先天的価値を早急に発見、もしくは創造しなければなりません。一度付けられた遅れは、取り戻さなければ勝利できません。自身の人生をより幸福なものにするために、自分たちに備わっているものは何なのかを考える時が来ているのではないでしょうか。

綺麗な風景とは

田園風景とか、あるいは農村の風景ってありますよね。

作品の演出にしろ、実際に人と旅行するときにしろ、あれを素敵な風景だと言うのはよくあることと思います。
その景色だけでなく、都会のように汚れていない澄んだ空気を全身で浴びながら、五感全体を通して心が落ち着いていく感覚を味わったことのある方は多いのではないでしょうか?

 

僕は田舎に行くと、怖くなります。

 

田舎の、自分の世界の外の人の生活というのを、都会のみなさんは見たことがありますか。あるいは、いわゆる都市に住んでいない人たちは、自分が今どんな環境に住んでいて、ほかの世界にどんな人達がどのように生きているのかを知っていますか。

 

田舎で生きている人たちは、本当に外の世界を知りません。それは決して悪いことではなく、非常に賢い判断だと思います。なぜなら、死ぬまで幸福でいられるだけの知識と能力は十分に備えている(という自認がある)からです。これは都会の人にも同じことが言えます。

 

ただ、都会の人達と一つだけ違うのは、田舎の人は情報にアクセスする手段が本当にないのだということです。
これは空間的制約ではなく、文化的制約です。

情報こそが、田舎にとって都会を外の世界たらしめている根本的な原因だと僕は思います。そして、この差異が存在している以上、我々は宇宙人なのです。

 

高速道路に乗ってみてください。地下鉄行き交う大都市には2時間程度でアクセスできるのに、文化が不思議と断絶されている世界が見えると思います。

その場所にもし生まれていたら、もし自分に特別な才能も特別な環境もなく、例外になり得ないとしたら、何を感じて生き、どのように見られるのでしょうか。

気配りというマナー

あの人は善い人だ、あるいは、あの人は悪い人だという評価は、社会においてごくごく自然かつ頻繁に行われている。健全な評価であることもあれば、あるいは、意図的に行われている場合もある。

ただ、共通しているのは、それは必ず一側面的な物の見方の表明であるということである。更に言うならば、必ず認識不可能な領域が存在し、それがどれだけ善人の精神を根本としていても、それは決して評価されることはないということである。

何が言いたいのかというと、他者が知覚できる善が限定されているならば、根本の精神に善を置くことは社会的な幸福の追求において無意味であると考えられはしないか、ということである。平易に言うならば、根本に善を存在させるよりも、善い人のフリをしてしまうほうが自分に利益があるのではないかと考えられるという話である。

人は恩を着せるという行為以外で善行を行うことはできず、つまり、恩に着たという認識を他者が得なければならない。すなわち、他者が知覚できないような行動というのは行為功利主義的に見れば意味を成さないということである。認識できないということは、規則にすることが不可能ということであり、それは動機の選択が自由ということである。

 

もはや現代においては、善行すべてがマナーと化しているのではないだろうか。マナーは相手を値踏みするための共通認識であり、同時にコミュニケーションにおいて自己が正当性を失わないための手段にほかならないが、マナー評価的な見方が、あまりにも浸透しすぎてはいないだろうか。それは本当に正しいのだろうか。

日々生きている中で、人生がなんとなくうまく行っていると思うことはないだろうか。神を語るだけのリテラシーは持っていないが、日常で感じる漠然としたそれは、誰かの善意によってもたらされたものではないだろうか。

そしてあなたは、そして私は、善い人だろうか、それとも悪い人だろうか。