あけおめ的な
あけましておめでとうございます。去年までにお世話になった方も、新しく出会う方も、今年1年どうぞよろしくお願い申し上げます。
もうすっかりアニメの振り返りなどする気はなくなってしまって、昨年に引き続き何も書いていません。というか、もうアニメもろくに見ていません。去年まともに見たのはえとたまぐらいでしょうか。面白くないアニメは切る、前評判の芳しくないアニメは切る、でも流行りのアニメだけは内容を押さえておく、というような数年前の自分が一番忌み嫌っていた存在に成り下がってしまったんだなと痛感します。
大好きだったアニメに限らず、信念という概念そのものがどこかへ飛んでいってしまったような感覚です。決めたことは決めたどおりやる人間でしたが、場合によって判断を変えてしまうことが多くなったような気がします。人並みに臨機応変になったという点では単に良いことなのですが、昔の自分と比較して変化が起きていると、なんだか不安になります。あと、ようやく自己認識ができるようになった、というだけの話かもしれません。よくよく考えれば昔から飽き性で、いろんなゲームやらホビーやらなんやらを放り出していた記憶があります。そういうときに、意志の"始まり"ではなくて"終わり"に注目するようになってしまっただけなのかも。
こだわりって、有ったほうがいいんでしょうかね。自分にはすっかりわからなくなってしまいました。結局のところ、こだわりというのは逆張り的なものなので、世間に迎合してしまうほうが良いのでしょうか。何かにこだわってアイデンティティを形成することは、必ずしも自己の幸福には直結しないのではないかと考えるようになりました。むしろ歪んだ形で形成されたアイデンティティは、一度、世間をモノマネすることによって消滅させる必要がある気すらしています。幸せになるための土壌としての自己を用意しなければ、実は何も始まっていないのではないでしょうか。
ともかく、今年は強制的に変化が与えられることになります。うまく卒業できればの話ですけど。自分で言うのもバカ自慢のようでアレですが、少なくとも大学の同級生たちや内定先企業の同期たちよりは、底辺の世界が大きいものであること、そして狭い世界であることを知っている自信はあるので、どんな形であれ生きていくこと自体は出来るだろうという妙な余裕があります。昨年の10月頃からは久々にゲームセンターに通いつめてみましたが、土方のおっさんがこれだけの金額をつぎ込んでゲーム出来ているなら、自分もそこそこ楽しく生きられるんじゃないかと思ってしまいました。
ところで、恋愛には、もはや一切の希望が持てなくなりました。結局のところ、自分は歪んだ育ち方をしてしまったので、健常な人間は寄り付かないのです。歪んだ人の中には極端に自己を尊重する人と、極端に自己を卑下する人がいるということをよくよく理解できましたが、自分はおそらく後者なので、人に迷惑をかけて自分が幸せになることすら出来ません。そのくせに、与えられなかった分の承認を取り戻そうと必死なので、端的に言って完全に詰みです。愛情には敏感なつもりでいるので、お金で得た承認が人格を評価するそれと異なることはすぐにわかるので、成金的・小金持ち的な女遊びの愉しみ方も自分には一生理解できないのでしょう。
幸せにはなれないのではないかというぼんやりとした不安が、いよいよその輪郭が鮮明になり、確信へと変わってきました。自分なりに色々ともがいてはいるものの、本質的な部分には一切触れられていないように感じます。答えはどこにあるのでしょうか。証明問題は「解なし」であることを示すのが一番大変だという話がありますが、まさに今その導出作業をしているような気がしてなりません。解が得られるか、それとも解なしであるか、いずれにせよ何者にもなれないまま終わりたくないのですが、きっと何者にもなれないのでしょう。
ミソジニー
僕は女性が苦手だ。
この感覚は、強いていうなら恐怖に属するものである。それは、女性個人から理不尽に否定された経験ばかりで対等なコミュニケーションをした時間が他人よりも希薄だったからかもしれないし、女性の形成するホモソーシャルやそこで生まれる文化がいまいち理解できなかったからかもしれない。
理由は漠然としていて掴みどころがないが、とにかく、女性と話すときは身構えてしまうし、汗も病的な量が出る。たぶん、頭も回ってない。
女嫌いのことを"ミソジニー"と呼ぶのだという知識をどこからか得た僕は、検索で引っかかった上野千鶴子氏の本とかを読んでみた。今回はこの本の感想とか書こうと思う。
上野氏といえば有名な社会学者で、とくに、日本の女性学史においては永遠に語り継がれるであろう人である。フェミ系のジェンダー学ならまずこの人の名前が出てくる。
人気な本で、要約文みたいなレビューもそこら辺に沢山転がっているので、諸々を端折って結論から書くと、これは言葉の乗っ取りだと思ってしまった。
上野氏の語るミソジニーは、単に女性への恐怖や嫌悪という話ではない。それどころか、僕は真逆だとすら感じた。
大多数の男性が女性を一種のモノのようにみなし対等な関係を拒む様と、その背後にある男性ホモソーシャル内における承認条件としての女性所有、そしてさらには、男性から欲望される側の存在に"させられた"女性が性的主体になれないこと、これらを総称してミソジニーと上野氏は呼ぶ。
これは、「男性社会によって定義された性的主体/客体のあり方を肯定するか」という問いにYESかNOかという話である。ただし、これにはジェンダー非対称性があり、男性は根付いたミソジニーゆえにYESと言い、一方でミソジニーをもつ女性はNOと言う。結局のところ、男女に共通するお話のように言ってはいるが、問が同じというだけだ。男女のミソジニーの性質は、その性的関係性のあり方のように、真逆なのである。
ただ、共通する点はある。それは、この問に対してNOを突きつけた人間は、社会のはみ出し者として扱われるという点である。
男性ホモソーシャルにおける男同士の承認のために女性関係が利用されてきて、男の価値尺度をそのまま女性に利用させたという旨の話は、おおよそ真実である。しかし、少なくとも現代では、必ずしもそうではないようにも思える。
ここでいう尺度とは、金銭的余裕や容姿を指す。男性が自身より劣った女性をパートナーに好むという指摘があったが、その時に利用されるのが、これらの価値であるという。そして、価値で劣ると、ミソジニーを持つ男性は不服なのであるらしい。よって、女性はこの尺度を受け入れるしかない、という展開がされている。
本当にそうだろうか、と思わざるをえない。
容姿はともかくとして、金銭的余裕、というのは、単にその人の人間性の価値に限らない。女性に金銭的支援し、それほどぼくはきみを愛しているんだ/わたしはあなたに愛されているのね、と思う/思わせるような(一部の男性が作り出し、いまではすっかり多数の女性に利用されている)恋愛テクニックが存在する。
僕はこの理屈が大嫌いだ。理由は簡単で、それは愛ではなくて、自由経済社会で他人から得た利益なだけだからだ。さらに言い換えてしまえば、お金を頂けさえすれば、その提供者は神でも仏でもいいし、何もない空間でもよい。いわゆる愛情はあくまで感情の変化以上の効果を生まないが、経済のある場所では、それはこれ以上なく普遍的な価値であり、また、それは決して個人の恋愛感情に還元されるものではないように思う。
「女はカネについてくる」と堀江貴文は言ったが、この行為は、自身の価値を高めるために行っているようにしか思えない。本ではこれを男の用意した価値尺度に従わされているだけだというように解釈していたが、そうではなく、「愛情(の表現)を得るために金銭を払う男」と「愛情(の表現)を提供し金銭を受け取る女」という、ひどくドライかつ単純な経済的関係に思えてならない。最近流行りの「女は容姿を整えるのに大変お金がかかっている、だから奢ってもらうくらいは当然」というロジックは、これ以上ない証明となるだろう。
……まあ、根本が男のせいか女のせいかっていうアホらしい歴史認識の問題にしたいのであれば、今の資本主義社会も男が作ったものだろうと言われれば何も言えないのだが。
ジェンダー論ではフロイト先生のお話が未だに現役である。トンデモなオカルトネタでも独立であれば決定不能命題となるよい例である。が、僕も下ネタは好きなので、少し語りたい。
僕はしばしば、「精子を飲めてこそ愛」と表現することがある。
これは女性に奉仕しろと言っているのではない。僕自身の主観的な経験からそう言うのである。その人間を愛していればその人間の全てを肯定できるはず(というか、出来てこその愛)だからだ。自身がサディストだとかマゾヒストだとかに関わらずだ。性的主体にも性的客体にもなることが可能であるという関係こそが対等であるし、それが愛であると思っている。
……そう思ってはいるが、実際にはそうではない。だから、「それが愛であってほしいと願っている」くらいが正確である。
ここまで来てしまうといよいよ疑いがないのが、僕がこの本で指摘された男性ホモソーシャルの社会にまったく馴染めていないことである。フェミニズム的視点で見ればこれは喜ばしいことで、それはミソジニーを持っていないからだ。ただ、僕自身がいかに人生を幸福に終えるかという点でみれば、これは最も悲しむべきことのひとつである。
社会が成立してしまっている以上、その社会の価値尺度で認められない人間は概して幸せになれない。本の中でも「ブス」が女性のホモソーシャルで女性として扱われず、実はそれは男性ホモソーシャルの価値尺度で否定されていることとまったく同一の事象であるということが指摘されていた。価値の無い人間や、それに従うことを拒む人間は、共同体での承認が得られない。
僕はあまり愛情を得られずこの年齢まで来てしまったので、人並み以上に他人からの承認が欲しいし、人並みに恋愛感情も抱く。だが、ホモソーシャルの承認が得られない以上、男性だけでなく、男性社会に尺度によって相互に価値付けされる/することを認めている(認めさせられている)女性たちからもまた、承認は得られないのである。
この社会に適応できない男性のように、この社会に適応できない女性もまた、幸せは遠いものとなる。男性に構築された社会に対して、経済的利益という追認を無意識的に与えながら適応していくほうが、まだ幸せになれるのである。結局のところ、男性ホモソーシャルによって構築された世界に適応できる権利を与えられた女性であれば、たとえそれがミソジニーを持つ女性であっても、いちいち非ミソジニスト男性に構っているより、ミソジニスト男性を主体性を自覚しながら利用してしまったほうが明らかに"得"なのだ。
この本では、息子は父が母を支配する様子を見て父に同一化し母のような女性を求め、一方で娘はその逆だという、ミソジニーの再生産が指摘されている。
僕には物心ついた時すでに父がいなかったので、幸か不幸か、こうした再生産のサイクルから脱出したようである。社会の再生産のサイクルに乗れないというのはつまり"非常識"であるということであり、追い出されてしまった、と言うのが近いのかもしれない。子供には全く顔も姿も覚えられておらず、それでも毎月の養育費を払い続けている様子はむしろ、女性の支配だけを強く印象付ける。
僕の女性に対する嫌悪は支配に対する恐怖だと思うのだが、上野氏にうまいこと言葉を取られてしまったので、ふさわしい言葉を知りたい、というお話。
幸せって、平等なの?
みなさんは、今、幸せですか。
主観的な幸せについて、次のようなロジックがあります。ある出来事が幸か不幸かを決めるのは自分だから幸も不幸も自分の気の持ちよう次第でどうとでも変わる、というものです。
また、この考え方に関連して、幸せは平等に訪れる、というちょっぴり宗教じみた言説を聞いたことがある人も結構多いのではないでしょうか。
ポジティブさこそ幸せの源だ、と考えつつもいつもネガティブな方にばかり思考の傾く僕はこういったプラス思考の理論をなんとか取り入れようと心がけているので、すっかり納得しかけていたのですが、よくよく考えてみれば、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だなと気がつきました。
「事象そのものは平等で個々人の幸/不幸ボーターによって幸か不幸が決定される」という平等モデルについて、真っ向から反論したいと思います。
単純な思考実験によって反証が出来るのではないか、と考えました。それは、「自分がある他人と、思考以外の全てが入れ替わることになった時、どう感じるか」を考えるというものです。もし平等論を説くならば「そんなことができるなんてラッキーだ!」と思ってもいけませんし、「あんな人間とは入れ替わりたくはない」と思ってもいけません。同じだけの事象が得られるはずですから、思考さえ自分のままであれば入れ替わっても問題がない、というのが平等モデルのスタンスであるはずです。このとき、入れ替わりに対して何らかの損得を計算できてしまうならば、それはなにより平等ではないことの証明になります。
もちろん、同一の事象に対して個々人の捉え方が違うのは否定しません。しかし、それぞれの考えを持つに至った経緯に、平等性があったと言えるでしょうか。人の脳のはたらきが、それまでの体験によって大きく異なってくるということは、すでに常識となっています。その体験は平等に与えられたものでしょうか。違うと言ってよいでしょう。
私の持論を言ってしまうと、幸福な人ほどどんどん幸福になり、不幸な人ほどどんどん不幸になる、と思っています。
ネガティブな傾向の人にはネガティブな事象が、ポジティブな傾向の人にはポジティブな事象が降りかかる、という話を私は否定しません。鶏が先か卵が先かという議論にはなりますが、ネガティブな傾向の人にはネガティブになるべくしてなった理由があり、それならば、ネガティブな傾向そのものではなく、その理由について現在の結果と因果関係がある、ということ自体は肯定すべきものだと思うからです。
不幸な人は、心理学的な説明で言えば、欲求階層の上層にたどり着くことは永遠にない、と考えています。それは、環境的な問題によって、すでに現在の階層の欲求を満たす方法を失っているからです。逆に、幸せな人は、上位欲求を満たすための土台に立てているわけですから、あとは一段一段登っていくだけです。
つまるところ、レールに乗れているか、既に脱線しているのか、という話なんだと思っています。こぼれてしまった人達は、もうあがいても無理です。せいぜい、レールの上の人達を無理やり引きずり下ろすことを試みるくらいしか出来ません。
同時に、自分がレールの上にいるのかどうかは、結果論でしか確定しません。だから、最終的に自分がどちら側の人間であったとしても、今どれだけ自分の居場所がはっきりと見えてきていても、レールの上にいると信じて行動するしかないのです。
そう考えれば、人生はただのギャンブルです。自分がどこにいるかがどれだけ見えてきているかで、期待値がどんどん定まってきます。
あなたの期待値は、プラスですか?
大学に通ってみた
みなさんこんにちは~。今日はですね~、大学に通ってみたいと思います!!
…Youtuberってこんな感じで大丈夫ですかね。
この一年間、大学では「ヒモになりたい」という言葉が何度口から漏れ出たことか。とはいえ、大学に入ったからには物事をより一層工学的アプローチで捉え改善させていく必要性を感じ、この当初の欲望を「好きなことで生きていきたくない?」程度まで現実的な形に落としこむことに成功しました。
こんな事ばかり言っているので、友人諸氏からは呆れられっぱなしです。すっかりバカ扱いですが、実際バカなのでこのポジジョンには安心感があります。しかし、大学で馬鹿キャラがモテないということも知りました。知的聡明な優男っぽいヤツがモテる。これが大学に一年間通って得られた結論です。そう、僕はキャラ付けを間違えてしまいました。
後からどうしようもないことは悔やんでも仕方がないと言う人がいますが、現実問題として幸せから遠のいてしまったし、なにより無意識的に社会に順応していくことが出来ない人間であることを自覚させられることって、普通に辛いと思うのですがどうでしょうか。
そんな感じで、一年間過ごしていました。一年間というのはとてもあっという間でした。今振り返れば、"あっという間"にした原因は大学がその大きな部分を占めていると思うので、僕は大学が嫌いになってしまいました。
学歴を貰って生涯年収を増やすために大学に入ったので、楽ちんな授業か、そうでなくともせめて為になる授業かのどちらかを期待していたのですが、どちらにも満たさないクソみたいな授業ばかりで僕の気持ちは萎え萎えです。編入生がいっぱい授業を受けれるように3年次は授業が多くハードになっている、という内部生向けの方便を教授が使っているなんて話も聞きましたが、人にヘイトを擦り付ける道徳の欠片もない言い訳を使うならせめてクソだろゴミだろウンコだろと言われない授業をしてほしいものです。
大学に1年間通って得た知識や知恵というのは、せいぜい、文章の意味をそのままに文量を数倍に膨らますテクニックとかの程度です。週イチでそんな文章を大量に書く訓練をさせられたので、もう簡潔かつ自然な文章がすっかり書けなくなってしまいました。この投稿もひどいものになっていると思います。
大学はどういうところか、ということを知った事自体は良い経験だと思います。世界を知るということは、可能性を知るということだと思います。実際にはそんな可能性なんていう薄いところすらないのかもしれませんが、僕はあると思っているし、それは単純にあってほしいという希望そのものでもあります。
ちなみに、可能性を信じて一口買った特別開催のtotoBIGは外れました。
今度の可能性チャレンジはTOEICです。当たるといいな。
去年の振り返りとか
あけましておめでとうございます。
日頃から僕にかまってくれる皆様方におかれましては、今年も何卒よろしくお願い申し上げる次第であります。
さて、昨年は色々なことがありました。
まず大きかったのは、高専の卒業でしょうか。あまり過去を懐古し続けるのもどうかと思っていつつも書きたくなってしまう出来事です。
5年間の終わりというのは中々に感慨深いものがあり、去年は年末ではなく年度末に痛々しい締めの記事を書いた記憶があります。ああ恥ずかしい。
学祭や忘年会で会いましたが、みんな新たな環境で元気にやっているようで、とても元気をもらいました。たまにしか会えない、けども気心の知れた関係、というのはとてもとても貴重だと思います。今だから言える冗談なんかもあるしね。
僕のことを友達だと思ってくれている人がいるのかはさておき、僕はみんなのことを友達だと思っているので、今後もこうして定期的に会いたいですね。
あと、2月のはじめに祖父が他界しました。
僕には父方母方という概念がないので、たった一人の祖父でした。いわゆる"ものづくり"が好きなのは、今思えば、祖父の影響がとても大きかったように思います。小さいころ、顔がおじいちゃんに似てると近所の人に評判だったのを覚えています。やっぱり血なのでしょう。
元気な頃の祖父は、正義感が強い人でした。そうした姿勢は必ずしも生きやすいわけではないことを実感していますが、僕の中で無意識的に理想像としているところはあるかもしれません。
あとは大学の入学ですかね。卒業は一斉にお別れしますが、入学は一気に関係が増えるわけではないので、入学それ自体が一大イベントという気はまるでしないのですが、それでも、思い返せばたくさんの人と知り合うことができました。内部生と交流を断って細々と生きていく覚悟の上で編入したので、とても嬉しいです。大半の人はTwitterのおかげかなと思いますが、女の子にもアカウントがバレてしまったのが唯一にして非常に大きな後悔です。もし大学にもう一度入り直すことがあれば、ほかの人みたいに大学用のアカウントをちゃんと作ろうと思います。
大学生らしくモラトリアム満喫したいなとか、個人的に勉強とか新しい趣味も出来たらいいなあとか、色々ぼんやりと計画を立てていたものの、授業だけでも多忙すぎて、本当に何もできませんでした。あまり勉強になる内容でもなく、ただただ作業的に課題をウケ良さそうに仕上げ続けるだけの機械と化していました。
前々から思い詰めていたこともあり、死んでしまおうかと思うものの勇気がなく泣きながら電車の吊り革に掴まって帰るみたいな時期もありました。まあ、死んでないんでただのクソ情緒不安定なキモオタクなんですけど。
オタクといえば、多忙ゆえに今年は全然アニメを見ませんでした。
熱が冷めてしまった、というのもあるのかもしれません。あまり本数を見ていないので、偉そうに「今年はこのアニメが一番良かった!」的な記事を書くこともしませんでした。青春の貴重な時間を捧げて恒例化していたものを断ち切ってしまうと、若さ故の勢いというのは若いうちにしかないものなんだなと実感します。
あ、ハタチにもなりました。一昨年には学校のみんなは大体二十歳になっていたので、去年成人を迎えたという感覚があまりないですね。
去年の3月までの5年間、留年した人を結構たくさん見てきたのですが、そういうこともあってか、若さというか体感の年齢というのは、実年齢よりも環境に左右されるなと思ったりします。歳相応の振る舞いをできるようにしたいものです。
一昨年のはじめあたりに、自信を持ちたいという旨のことを書いた記憶があります。
今年は、ほんの少しだけ、自信が付くようになってきたような気がしています。まだまだ他の人たちに比べたら相当ネガティブかもしれませんが、ゆっくりにでも大人になっていければ良いなと思います。
19歳になりました
3/29で19歳になりました。
学校の同級生だと3月生まれは僕しかいないので、一ヶ月以上ぼっち18歳でした。
年齢がインクリメントされるごとに思い出す話があります。
年中無休で開店休業: 人生について考えた:体感時間と人生の折り返し地点
僕の何個か上の先輩にあたる方のブログ記事なのですが、何度見てもなるほどと思います。
そろそろ然るべき変化を伴って大人になるべき時期だと思うのですが、この一年間の僕には驚くほど変化がありませんでした。
何か熱中したわけでもなく、何かを身につけたわけでもなく、一体何をやっていたんだろうかと自省するばかりの日々です。
一度自分に対して問いを投げかけると、これがなかなかやめられなくなってしまうもので、過去の自分に文句をつけることばかりです。
スティーブ・ジョブズが「点と点が繋がってることが後からわかった」という趣旨のことを有名なスピーチで言っていた気がしますが、あれは成功者の台詞でしょう。
自分に当てはまらないとは言いません。というのも、今の僕は過去の僕の延長であることが明らかだからです。そう考えると、この言葉は「人は変われない」という、ある種の帰納法的な意味に思えてきて少し辛いです。
小学校の頃、背の順という整列規則がありました。僕は背が小さく、一番前の常連でした。
その時の記憶が強すぎて、僕の中では僕は未だにチビなのですが、実際に今の同級生たちと比べてみると決して低くない身長のようです。
ところが不思議なことに、この事実を認識しても、心にある低身長固有の劣等感はなかなか消えないものです。
今年はこの負け犬根性を綺麗サッパリ捨てることを目標にしていきたい。
考えれば考えるだけ負けの事実を認識することになるので、深く考えず、バカになろうと思います。なれたら苦労しないけど。