ぼっとんべんじょ

糞尿がドンドン溜まっていく場所

「人は存在するだけで価値がある」という幻想

最近見たとある連載に、
「人間みな肯定されるべき普遍的価値があり、その価値は収入や職位などの社会的ステイタスに左右されないのだ」
「この価値を自身で意識していれば、生きづらさは減るのではないか」
という主張があった。

 

はたして本当だろうか?僕にはそうは思えない。

 

ある価値が社会的ステイタスに左右されないということは、お金やモノだったり、
あるいは間接的にこれらを生む人脈だったりに対して認める経済的な「価値」とは別の、
人そのものに見出すことができる「価値」があると言っていることになる。

 

哲学をあたってみると価値論にはいくつかの主張が存在するが、
その内容は、評価主体によって価値が認められるというものや、ある規範体系に則っていることが価値であるというものである。

これらが冒頭の主張の指す「価値」と全く同じものではないだろうと思うが、
いずれも、ある個人が存在することそのものに価値を認めるものではない。

 

とはいえ、人類全員に生まれ持った価値があるのだと言ってしまえばそれまでなので、
仮に価値があるとして、では生きづらさが本当に減るのか、という点を考えることにする。

 

生きづらさの明確な定義はなさそうだが、自尊心の低下・孤立感のような感覚で、
社会的な関係性によって個別の事象として顕在化するとともにより強化されていくもの、という認識が一般的かと思う。
認識の変化で生きづらさが改善するという冒頭の主張と照らしても、理解に大きな差はなさそうである。

 

この「生きづらさ」の認識の中には、社会的な結びつきが再び生きづらさを生産してしまう、という循環構造の問題がある。
自分が認識を変えれば良いですねという話で済めばよいが、
そもそも今抱えている生きづらさは社会が生み出したという側面があり、自分だけで脱出できるものではないだろう。

(もし可能だった場合、それは「社会が生きづらさを生産することはない」ということになる)

 

この悲しい構造を脱出するためには、何よりもはじめに、
誰かが普遍的価値を認めてあげる、ということが必要である。

 

だが、その「普遍的価値」の他に、お金も、人脈も、よい容姿も、よい性格も、何も持っていない人がいたら、
果たしてその人にわざわざそれを認めさせるだけのことをすることがあるだろうか。

結局は、誰もが持っているはずの普遍的価値ですら、様々な価値をより多く持っている人間から順番に認められていくだけである。

 

もはや、普遍的価値があったとしても意味はなく、真に必要なのは社会に認められる価値なのだ。
そういう架空の存在を過大評価すると一時は気分が良かったりするが、
のちのち再び問題と対峙したときにより絶望的な状態になっているので、信じないほうが良いのではないだろうか。

僕は物心ついたときから片親家庭で育ち、そして僕の母親はいわゆる毒親だった。

離婚の記憶がないのは良いことでもあるし、悪いことでもある。
良いのは離婚のゴタゴタに起因する精神的な影響を受けなくて済んだことで、悪いのはどんな人間がどのように離婚に至るのかを間近で見る貴重な機会を逃したことだ。

母親には年上の彼氏がいて、いわゆる愛人のような存在だった。
一緒に食事をしたり、僕の住む家で過ごしたりという時間はそこそこの量あり、生活を共にしていると十分言ってよい人間だったと思う。

そんな中で、僕の立ち位置もわからないものになっていく。母親からすれば僕はただ一人の子で、母の彼氏からすれば無下に出来ない愛人の子なのだが、眼の前にいる二人のいずれか一方しか選べないということが往々にしてある。
そして優先順位をつけるならば、母は生命線の彼氏を選ぶし、母の彼氏は当然に母を選ぶ。
この関係性は、僕にとってのみ明確に家族だった。

こういう世界が出来上がってしまうと、例えば虐げられたとしても怒りの行き場はどこにもなく、ただ自我を殺す以外にできることが一切なくなる。
これが学校や職場という構造の中になると怒りの昇華先があって、長期的な見方ではそれが打開策だったりするのだが、家庭の中にはそんな機能はない。

 

かつて実家で過ごしたときのような居場所のなさを、今は感じずに済んでいる。

その快適さだけが圧倒的に強烈なので、仕事が辛いなと感じていても、安易に辞めることが出来ない。
労働を辞めるということは、救いを自ら断ち切るということのように思えてしまうのだ。

もしも生まれた家庭が違えば、もっと有意義に時間を使えただろうとか、もっと充実した経験を出来ただろうとか、そういうことを考えることもある。

が、なにより不幸なのは、自分の居場所が認められた途端、強烈な安心感を覚えてしまうようになったことだと思っている。
僕を都合よく利用したい人間がいたとすればこれはとても都合の良い性質だし、そしてその時以外には全く効果のない性質で、呪いと言ってよいだろう。

この先の人生、この呪いで取り返しのつかない失敗をすることが続いていくのだろうなという強烈な予感があり、その予感はさらに強さを増すばかりだ。

 

流行も知らず、漢字も読めず、法律も思想も歴史も地理も知らず、しかし自身の経験のみに基づいて自身をただ肯定し続けていられる大人をここ数年で沢山見てきた。

 

僕のやっているエンジニアという職業は、ひどくロボット的だと思う。
奴隷としての能力、あるいは幼少期~青年期に得られた無条件的な自己肯定感、それ以外に自身の拠り所が本当に無い。奴隷ならせめて鎖自慢をするほうがまだ文化的じゃないか?

奴隷になるための教育を受け続けた結果ちゃんと奴隷になれた、というのは人生の常識的なレールの一つではあると思うのだが、結果としてそれは自分や世界のことについて考えるための教育を受けられなかったということでもある。

 

教養は自助努力によっていつでも身につけられる、という言説には反対の立場を取りたい。例えば、任意の何かを成すことがいつでも可能だったら能力に莫大な価値が生じることはないだろうし、対象を教養に限定したとしても、もしそうであればアカデミズムの外部への権威性は今ほど強固ではなくなるだろうと思う。

 

じゃあ教育の岐路に立つ14歳や17歳の時に選択を誤ったのかというと、僕個人はきっとそうではないなあと思う。その頃は何かについて考えることにそこまで強い意欲はなかったし、何かを考える能力は今よりもさらに無く、教育に耐えうるだけの要素が一切欠けていた。

 

自身の過去の行為を反省するにあたり、どこから選択をしていて、どこまで選択させられていたかという判断を下すのは難しい問題に感じる。決定論的立場に立つほうが楽なように見えるので、安直にそうしたくなったりする。

 

さらに、そういった問題に向き合うことをせず、奴隷をやるほうがむしろ気楽であるという気持ちになることもある。それはもしかすると、僕はロボットになる方が幸せだということなのかもしれない。

その幸福を拒否することができれば、それは僕の幸福の限界は僕が肯定できない程度の小さなものだということなのだろう。一方でその幸福に浸るのであれば、それは意思を持って生きるという行為に自分が不適格なのだと認めるということでもある。そんな惨めな二択はあるだろうか。

 

ある程度の年齢になっても生き方がまるでわからない、なんて情けないと自分でも思う。情けないで済めばよいが、そもそも生き方などなく死んだほうがよっぽどマシなのに答えを探しているのだとしたら悲劇だ。

 

こういう悩みに一定の折り合いをつけてくれるのが教養の効果の一つだと思うのだが、無教養をめぐる悩みの解決に教養が必要というのは結構痛快だと思う。

教養がないと人は死ぬことも出来ない。

Twitterを始めてから9年近く経つ。

僕より年上のフォロイーは大半が就職して、年下の各々も人生の輪郭が明確になりつつある。

そして、これはTwitterに限らず、そのまま社会一般にも当てはまるだろう。
SNSは社会に対する覗き窓として機能する側面がある。

 

いくつかの小さな窓を通して世界を見る行為にこれまでの人生の大半を費やしてきたが、
結局のところ、窓の外の世界は僕にとって残酷であり続けている。

 

何らかの尺度を置いた時、もちろん自分より優れた人間はいて、劣っている人間もいる。

ただ、絶望はそこにはない。
本当の絶望は、その優劣を決定する因子に自分の手が届かない、という点にある。

 

社会学では、現代の日本において誰がどの社会階層でどういった社会的活動をするか、ということの因子のひとつに生育環境があるということが明らかにされつつある。

僕はその一連の議論を知った時、途端に社会学に興味がなくなってしまった。

これから世の中がより明確になったとして、その結論がもはや自分を救うことはないからだ。

 

自殺したことがないので自殺者の気持ちはわからないが(自殺しても他人の気持ちはわからないが)、
仮に、自殺が思考の果てに行われる行為だとすると、それは構造主義的な認識の結果なのだろうな、と思う。

 

20歳頃までは、自身を取り巻く環境に対して憎しみや恨みのようなものを抱えていたのだが、
今思えばあれは、もしかしたら環境が変わって自身に(遡及的な)救いが訪れるかもしれない、というひどく妄想のような願望だった。

 

原因を明確にするということは、救済の手段が存在するかを示すということでもある。

 

今はただ、「生きなければいけないのだ」と無条件に命令する自意識を呪うばかりだが、
この由来が判明した時、僕はきっと何らかの形で呪詛から解放されるのだろう。

銭湯生活

ここ一週間ほど、銭湯を利用をしていた。
自宅の給湯器が壊れたためだ。

 

Google Mapで「銭湯」と入れてみて、自宅の近隣に複数件の銭湯があることに驚いたし、
実際に行ってみると、絵に描いたような銭湯が存在していて驚いた。

(ちなみに中身もやはり絵に描いたような銭湯だったが、そこはあまり驚かなかった。
むしろ、世の中で外見と内装が異なる施設をキャバクラくらいしか知らない)

 

田舎育ちの人間にとって、「銭湯」というのは「スーパー銭湯」を指す言葉である。
半年に一回、テンションの行き場がなくなった際に、じゃあちょっと贅沢でもしようかと行く場所で、
その動機は家族で行くファミレスや回転寿司などに近い。

一方、本物の「銭湯」はどこでも同じ値段で入れる上、
だいたいどこも同じ感じの設備で、だいたいどこも同じ感じに年寄りがいて、だいたい毎日、同じ客がいた。

 

うおーすごいなーと感心したのは460円という入浴料の値付けで、
これは、風呂なし物件に住む人間がギリギリ払おうと思う絶妙なラインだと思った。

 

自分は毎日風呂に入ることが最低限度の清潔だろうと思っているので、
風呂なし物件+銭湯 という組み合わせに対する旨みは全然ない。

だが、入浴の回数を切り詰めてでもそこに住まねばならない、という人間はたくさんいて、
そこに入浴の回数を切り詰めるとコストカットが可能ですよという価値を提供できる値段が460円なんだろう。

 

…なんて思ったものの、冷静に考えてみれば、不動産の賃貸料のほうが合わせてきていると考えたほうが良さそう。
銭湯の入浴料は簡単には変わらなさそうだが、賃貸料は変えやすく、かつ競争的なので、
現在の価格的な釣り合いそのものは不動産側の意図でのみ形成されている、はず。

 

そういった感じで銭湯にまつわる大凡の点が腑に落ちたのだが、
そもそも、給湯器が壊れたぞという連絡を大家にしてから交換対応まで10日ほど待たされたというのは
どうやら世間一般では結構雑な対応っぽいので、次はなるべく管理会社がついている家に住もうと思った。

Google Home Mini を買いました。

 

「OK, Google. 今年も一年お疲れさま。」

 

「優しい言葉、ありがとうございます。冬の寒さも吹き飛ぶくらい、暖かい気持ちになりました。」

 

「OK, Google. お前一年間も生きてないだろ」

 

「すみません、よくわかりません。」

 


 

年末です。

特別な行事は何もないと思いつつ、年末特有の、ありとあらゆることに区切りをつけなければいけないという焦燥感があります。
いまは物事の一斉棚卸しのような状態ですが、大抵のことは区切りなど付かずそこらじゅうに散らばるのみで、かなり具合が悪いです。

 

物事を真剣に考え続ける行為が出来なくなったことに、一種の絶望感があります。

労働に時間の大部分を割くようになり、無意識的に「可処分時間のうちどれだけの割合を割いたか」という指標で取り組み度合いを評価してしまうようになりました。
最も軽蔑していた人種に自分が真っ直ぐ近づいていっているなという実感があります。

 

たぶん、昔のようにじっくりと考えれば、自分にはもう幸せになる道などないのだということがわかるのだと思います。
考える間もなく生き続ける、ということはとても残酷で、死ぬ時の感情を想像しただけでかなり悍ましいですが、自らその状態に納まっているので生存本能は人間最大の欠陥だなと思うばかりです。ちなみに人類欠陥ランキング2位は性欲です。

 

来年は、もっと社会を憎み、もっと惨めな人生になっているだろうなと思います。

 

ところで、最近、アニメを見る生活に戻りました。
アニメはいいですね。失っていた自我を少しずつ取り戻せている気がします。


2018冬は三ツ星カラーズが来ると思います。

文章をまとめる能力がメチャメチャ落ちている気がする。
まあ昔から要約するのもオチを付けるのも下手くそだという自覚はあったので、単純に能力が上がっていないんだろう。

昔できたことが今できないという感覚、自分の場合は大体錯覚で、実際は昔もカスみたいな結果しか残していなかったりする。
かと言って、今のほうがマシかと問われれば別にそんなことはなく、昔から何者にもなれない無気力人間なだけで、文章どころか人生にもまとまりがない。

自分を含め、人生を憂う根暗はどうしようもなくキモいが、生きる意味とか考えたことないけど生きるのは当たり前でしょうみたいな根暗はもはや社会が創った悲劇だと思う。
ただ、それはそれで一種の社会適応で、アプローチが「プラスの最大化」か「マイナス感情の最小化」という違いだけで、向かう先は典型的クズも思考停止も一緒のような気がする。

 

こんなことを考え、こんなことでもまあ書いとくかとなっている今、日曜日がちょうど終わったところだが、この土日はどこにも出かけていないし、人との関わりもない。やったことといえば、一週間撮り溜めたアニメを消化しながらソーシャルゲームをオートモードで周回していたくらいだ。

 

奮発して買ったオナホールの入り口が、じっとこちらを見ている。