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社会人3年目が残業を年間600時間やってみた

社会人3年目のBtoC製品開発のエンジニアが年間600時間残業してみて、起きたことや思ったことなど。

勤務時間について

勤務体系は平日日中の定時間勤務で、残業は毎日2〜4時間程度行っていた。
ノー残業デーのような制度はなかった。

給料について

大体、年収の1/3くらいが残業代となる。
基本給は安いが、これだけ残業すると大手ホワイト企業で勤務する同年代の年収を上回ることもあり、自分がわりと稼げているような錯覚を持てる。

 

これは想像だが、薄給激務な会社に残る動機というのは基本的にこの「額面はそこそこある」という事実が大きいように思う。

生活について

平日は、仕事が終わればカップ麺や弁当を食べて寝るだけである。

 

食事の満足感などは比較的どうでも良くなり、安くてそこそこ効果のあるビタミン類などのサプリメントを日常的に摂取していた。むしろ食事よりも睡眠のほうが重要で、満足度とパフォーマンスに強い相関がある。自炊をするくらいなら睡眠時間を確保したほうが余程コスパが良い。

 

コーディングや勉強会などの自己研鑽の時間は週末の休みに確保することになり、結果として趣味も人付き合いも希薄なものになっていった。

 

生活を考えるということは、欲求とどう継続的に向き合っていくか考えることと等しいと思っているが、承認欲求のようなこじらせやすいものはあまり問題にならなかった。人間社会との接点が職場に限定されてしまうので、職場で足を踏み外すと一瞬で終わっていくだろうなという感じ。

 

毎日就寝前にシコっていたので性欲は特に問題を起こさなかった。

体調について

白髪が増えた。学生時代は1年に1〜2本出てくる程度だったが、今では探さずとも何十本も見える。
(余談だが、上司からは「まさかストレスが原因じゃないよな?こんなのでストレス感じてたらどこ行ってもやってけないぞ〜w」みたいなことを言われ、うわっこんなにパワハラ上司のテンプレみたいなこと言うやつ実在するんだ!!!と思った) 

また、繁忙期やストレス過多なときには、血尿や、血の混じった精液が度々出た。

 

休日に体調を崩すことがたくさんあって、何もしないで寝ているという日は多かった。

不思議と平日に体調を崩すことはあまりなかったが、周りの社員たちは限界が来ると本当に無理になってしまうので、これで済んだのは個人差だなと思う。

思うこと

残業600時間/年という単位はホワイト企業ブラック企業の境目にあると感じる。

というのも、いわゆるホワイト企業では、より時間制約の厳しい残業規制を設けていることが多く、残業時間の実質的な上限はおおよそ200〜250時間/年程度になる。

逆にブラック企業と揶揄される企業の多くは、1日あたり5時間程度の残業は珍しくないが、これを認める労使協定を結んでいる企業はほとんどなく、サービス残業のような勤怠記録の改ざんが行われているのが実態だろう。

つまり600時間/年の残業というのは、「コンプライアンス意識を要求され従っているが、積極的には労働環境改善に取り組まない」企業でのみ行うことができる特殊な労働形態といえる。

 

自分の身の回りに限って言えば、残業肯定派の社員が「昔はもっとひたすらに働いていた」とか「質の高いものを作るには時間が必要」といった持論を展開し、残業を認める体質や、積極的な制度変更をしない空気感を作っている。

まあ、時間を消費して品質を高めることは可能だと思うが、こういうことを言う人は実現可能性と「すべき」を無意識に直結しがちなのが根本の問題である。

結局それは組織の持つマンパワーの暴力を捨てたくないということであるし、同時に、その暴力に対抗できるような優れた構造を持っていないし作れもしないという自信のなさであると思う。

 

こうした企業は日に日にその力が弱まっていき、いつかゆるやかな死を迎えるのだろう。

その社会的な清廉さを維持したまま死ぬこと自体は、美徳かもしれない。

だが、そもそも死を受け入れたくないのであれば迷わずその前時代的な暴力を捨てるべきであるし、それが出来ないのであれば、もはや無意識の生を求めて彷徨うゾンビと同じだ。

 

平成の死とともにゾンビもまた死んでくれないだろうか、などと他力本願なことを考えてしまう。こんな悲しい世界が出来上がってしまったのは、平成という時代の中で各々が必死に自分の人生を、ひいては社会を自分事として捉えてきた結果だろう。もはやこれまでなのだ。

 

来たる次の時代は、終わったものたちを安心して看取ることができる世界になるよう歩んでいきましょう。よろしくお願いします。

僕は物心ついたときから片親家庭で育ち、そして僕の母親はいわゆる毒親だった。

離婚の記憶がないのは良いことでもあるし、悪いことでもある。
良いのは離婚のゴタゴタに起因する精神的な影響を受けなくて済んだことで、悪いのはどんな人間がどのように離婚に至るのかを間近で見る貴重な機会を逃したことだ。

母親には年上の彼氏がいて、いわゆる愛人のような存在だった。
一緒に食事をしたり、僕の住む家で過ごしたりという時間はそこそこの量あり、生活を共にしていると十分言ってよい人間だったと思う。

そんな中で、僕の立ち位置もわからないものになっていく。母親からすれば僕はただ一人の子で、母の彼氏からすれば無下に出来ない愛人の子なのだが、眼の前にいる二人のいずれか一方しか選べないということが往々にしてある。
そして優先順位をつけるならば、母は生命線の彼氏を選ぶし、母の彼氏は当然に母を選ぶ。
この関係性は、僕にとってのみ明確に家族だった。

こういう世界が出来上がってしまうと、例えば虐げられたとしても怒りの行き場はどこにもなく、ただ自我を殺す以外にできることが一切なくなる。
これが学校や職場という構造の中になると怒りの昇華先があって、長期的な見方ではそれが打開策だったりするのだが、家庭の中にはそんな機能はない。

 

かつて実家で過ごしたときのような居場所のなさを、今は感じずに済んでいる。

その快適さだけが圧倒的に強烈なので、仕事が辛いなと感じていても、安易に辞めることが出来ない。
労働を辞めるということは、救いを自ら断ち切るということのように思えてしまうのだ。

もしも生まれた家庭が違えば、もっと有意義に時間を使えただろうとか、もっと充実した経験を出来ただろうとか、そういうことを考えることもある。

が、なにより不幸なのは、自分の居場所が認められた途端、強烈な安心感を覚えてしまうようになったことだと思っている。
僕を都合よく利用したい人間がいたとすればこれはとても都合の良い性質だし、そしてその時以外には全く効果のない性質で、呪いと言ってよいだろう。

この先の人生、この呪いで取り返しのつかない失敗をすることが続いていくのだろうなという強烈な予感があり、その予感はさらに強さを増すばかりだ。

 

流行も知らず、漢字も読めず、法律も思想も歴史も地理も知らず、しかし自身の経験のみに基づいて自身をただ肯定し続けていられる大人をここ数年で沢山見てきた。

 

僕のやっているエンジニアという職業は、ひどくロボット的だと思う。
奴隷としての能力、あるいは幼少期~青年期に得られた無条件的な自己肯定感、それ以外に自身の拠り所が本当に無い。奴隷ならせめて鎖自慢をするほうがまだ文化的じゃないか?

奴隷になるための教育を受け続けた結果ちゃんと奴隷になれた、というのは人生の常識的なレールの一つではあると思うのだが、結果としてそれは自分や世界のことについて考えるための教育を受けられなかったということでもある。

 

教養は自助努力によっていつでも身につけられる、という言説には反対の立場を取りたい。例えば、任意の何かを成すことがいつでも可能だったら能力に莫大な価値が生じることはないだろうし、対象を教養に限定したとしても、もしそうであればアカデミズムの外部への権威性は今ほど強固ではなくなるだろうと思う。

 

じゃあ教育の岐路に立つ14歳や17歳の時に選択を誤ったのかというと、僕個人はきっとそうではないなあと思う。その頃は何かについて考えることにそこまで強い意欲はなかったし、何かを考える能力は今よりもさらに無く、教育に耐えうるだけの要素が一切欠けていた。

 

自身の過去の行為を反省するにあたり、どこから選択をしていて、どこまで選択させられていたかという判断を下すのは難しい問題に感じる。決定論的立場に立つほうが楽なように見えるので、安直にそうしたくなったりする。

 

さらに、そういった問題に向き合うことをせず、奴隷をやるほうがむしろ気楽であるという気持ちになることもある。それはもしかすると、僕はロボットになる方が幸せだということなのかもしれない。

その幸福を拒否することができれば、それは僕の幸福の限界は僕が肯定できない程度の小さなものだということなのだろう。一方でその幸福に浸るのであれば、それは意思を持って生きるという行為に自分が不適格なのだと認めるということでもある。そんな惨めな二択はあるだろうか。

 

ある程度の年齢になっても生き方がまるでわからない、なんて情けないと自分でも思う。情けないで済めばよいが、そもそも生き方などなく死んだほうがよっぽどマシなのに答えを探しているのだとしたら悲劇だ。

 

こういう悩みに一定の折り合いをつけてくれるのが教養の効果の一つだと思うのだが、無教養をめぐる悩みの解決に教養が必要というのは結構痛快だと思う。

教養がないと人は死ぬことも出来ない。

Twitterを始めてから9年近く経つ。

僕より年上のフォロイーは大半が就職して、年下の各々も人生の輪郭が明確になりつつある。

そして、これはTwitterに限らず、そのまま社会一般にも当てはまるだろう。
SNSは社会に対する覗き窓として機能する側面がある。

 

いくつかの小さな窓を通して世界を見る行為にこれまでの人生の大半を費やしてきたが、
結局のところ、窓の外の世界は僕にとって残酷であり続けている。

 

何らかの尺度を置いた時、もちろん自分より優れた人間はいて、劣っている人間もいる。

ただ、絶望はそこにはない。
本当の絶望は、その優劣を決定する因子に自分の手が届かない、という点にある。

 

社会学では、現代の日本において誰がどの社会階層でどういった社会的活動をするか、ということの因子のひとつに生育環境があるということが明らかにされつつある。

僕はその一連の議論を知った時、途端に社会学に興味がなくなってしまった。

これから世の中がより明確になったとして、その結論がもはや自分を救うことはないからだ。

 

自殺したことがないので自殺者の気持ちはわからないが(自殺しても他人の気持ちはわからないが)、
仮に、自殺が思考の果てに行われる行為だとすると、それは構造主義的な認識の結果なのだろうな、と思う。

 

20歳頃までは、自身を取り巻く環境に対して憎しみや恨みのようなものを抱えていたのだが、
今思えばあれは、もしかしたら環境が変わって自身に(遡及的な)救いが訪れるかもしれない、というひどく妄想のような願望だった。

 

原因を明確にするということは、救済の手段が存在するかを示すということでもある。

 

今はただ、「生きなければいけないのだ」と無条件に命令する自意識を呪うばかりだが、
この由来が判明した時、僕はきっと何らかの形で呪詛から解放されるのだろう。

銭湯生活

ここ一週間ほど、銭湯を利用をしていた。
自宅の給湯器が壊れたためだ。

 

Google Mapで「銭湯」と入れてみて、自宅の近隣に複数件の銭湯があることに驚いたし、
実際に行ってみると、絵に描いたような銭湯が存在していて驚いた。

(ちなみに中身もやはり絵に描いたような銭湯だったが、そこはあまり驚かなかった。
むしろ、世の中で外見と内装が異なる施設をキャバクラくらいしか知らない)

 

田舎育ちの人間にとって、「銭湯」というのは「スーパー銭湯」を指す言葉である。
半年に一回、テンションの行き場がなくなった際に、じゃあちょっと贅沢でもしようかと行く場所で、
その動機は家族で行くファミレスや回転寿司などに近い。

一方、本物の「銭湯」はどこでも同じ値段で入れる上、
だいたいどこも同じ感じの設備で、だいたいどこも同じ感じに年寄りがいて、だいたい毎日、同じ客がいた。

 

うおーすごいなーと感心したのは460円という入浴料の値付けで、
これは、風呂なし物件に住む人間がギリギリ払おうと思う絶妙なラインだと思った。

 

自分は毎日風呂に入ることが最低限度の清潔だろうと思っているので、
風呂なし物件+銭湯 という組み合わせに対する旨みは全然ない。

だが、入浴の回数を切り詰めてでもそこに住まねばならない、という人間はたくさんいて、
そこに入浴の回数を切り詰めるとコストカットが可能ですよという価値を提供できる値段が460円なんだろう。

 

…なんて思ったものの、冷静に考えてみれば、不動産の賃貸料のほうが合わせてきていると考えたほうが良さそう。
銭湯の入浴料は簡単には変わらなさそうだが、賃貸料は変えやすく、かつ競争的なので、
現在の価格的な釣り合いそのものは不動産側の意図でのみ形成されている、はず。

 

そういった感じで銭湯にまつわる大凡の点が腑に落ちたのだが、
そもそも、給湯器が壊れたぞという連絡を大家にしてから交換対応まで10日ほど待たされたというのは
どうやら世間一般では結構雑な対応っぽいので、次はなるべく管理会社がついている家に住もうと思った。

Google Home Mini を買いました。

 

「OK, Google. 今年も一年お疲れさま。」

 

「優しい言葉、ありがとうございます。冬の寒さも吹き飛ぶくらい、暖かい気持ちになりました。」

 

「OK, Google. お前一年間も生きてないだろ」

 

「すみません、よくわかりません。」

 


 

年末です。

特別な行事は何もないと思いつつ、年末特有の、ありとあらゆることに区切りをつけなければいけないという焦燥感があります。
いまは物事の一斉棚卸しのような状態ですが、大抵のことは区切りなど付かずそこらじゅうに散らばるのみで、かなり具合が悪いです。

 

物事を真剣に考え続ける行為が出来なくなったことに、一種の絶望感があります。

労働に時間の大部分を割くようになり、無意識的に「可処分時間のうちどれだけの割合を割いたか」という指標で取り組み度合いを評価してしまうようになりました。
最も軽蔑していた人種に自分が真っ直ぐ近づいていっているなという実感があります。

 

たぶん、昔のようにじっくりと考えれば、自分にはもう幸せになる道などないのだということがわかるのだと思います。
考える間もなく生き続ける、ということはとても残酷で、死ぬ時の感情を想像しただけでかなり悍ましいですが、自らその状態に納まっているので生存本能は人間最大の欠陥だなと思うばかりです。ちなみに人類欠陥ランキング2位は性欲です。

 

来年は、もっと社会を憎み、もっと惨めな人生になっているだろうなと思います。

 

ところで、最近、アニメを見る生活に戻りました。
アニメはいいですね。失っていた自我を少しずつ取り戻せている気がします。


2018冬は三ツ星カラーズが来ると思います。

文章をまとめる能力がメチャメチャ落ちている気がする。
まあ昔から要約するのもオチを付けるのも下手くそだという自覚はあったので、単純に能力が上がっていないんだろう。

昔できたことが今できないという感覚、自分の場合は大体錯覚で、実際は昔もカスみたいな結果しか残していなかったりする。
かと言って、今のほうがマシかと問われれば別にそんなことはなく、昔から何者にもなれない無気力人間なだけで、文章どころか人生にもまとまりがない。

自分を含め、人生を憂う根暗はどうしようもなくキモいが、生きる意味とか考えたことないけど生きるのは当たり前でしょうみたいな根暗はもはや社会が創った悲劇だと思う。
ただ、それはそれで一種の社会適応で、アプローチが「プラスの最大化」か「マイナス感情の最小化」という違いだけで、向かう先は典型的クズも思考停止も一緒のような気がする。

 

こんなことを考え、こんなことでもまあ書いとくかとなっている今、日曜日がちょうど終わったところだが、この土日はどこにも出かけていないし、人との関わりもない。やったことといえば、一週間撮り溜めたアニメを消化しながらソーシャルゲームをオートモードで周回していたくらいだ。

 

奮発して買ったオナホールの入り口が、じっとこちらを見ている。